ユニクロと中国企業が追い詰めた商社のOEMビジネス それでも商社は死なない理由とは

河合 拓
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商社凋落の引き金をひいたユニクロ

gyro/istock
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 このように、商社と百貨店、百貨店アパレルはバブル崩壊後でも「我が世の春」を謳歌していたのだが、突然襲ったのが1998年からはじまったユニクロの「フリースブーム」だった。社会現象にまでなった「フリースブーム」だったが、商社が、この事実とまともに向き合わなかったことが、商社凋落の始まりだったように思う。当時、誰に聞いても、「あんな安ものはロードサイドで売るべきものだ。我々の仕事じゃない」と言い捨てていたものだった。

  しかし、ファーストリテイリングは確実にゲームチェンジを行っていた。彼らの考えを要約すると、「服は所詮は部品であり、ベーシックで高いコスパの商品を消費者は求めている。それは、高所得者でも変わらない」、というものだった。私は、当時の繊研新聞に掲載された柳井正氏のインタビューをみて、「この人はやがてカシミヤも扱いだし、高級ブランドも傘下にいれるだろう」と当時から予測し、それが産業崩壊のトリガーになると思った。

 余談ながら、私が「ブランドで競争する技術」を書いたのは、日本のアパレルはファーストリテイリングに完膚なきまでにたたきのめされ、当時のブランドとはとても言えない代物だった「ブランド」を、本物にする以外に、産業が生き残る道はないという未来へのメッセージだった。しかし、産業界は動かなかった。相変わらず、百貨店アパレルのOEMを続け、大倉商事、イトマンと、二度も破綻の目に合いながら、まだ、商社繊維部は永続的に存続すると思考停止に陥っていたように思う。

ゲームチェンジャー、柳井正

ユニクロの看板
ユニクロの看板(時事通信社)

 柳井正氏のゲームチェンジは見事だった。当時、あちこちにユニクロの分析を投稿した私に投げられた批判は「しまむらの話がない」「みながユニクロになるはずがない」だったが、これらの私への批判は的外れであったことは時代が証明している。明らかに「しまむら」と「ユニクロ」では、世界的名声やブランド力、そして、売上なども全く違う。ファーストリテイリング は、日本市場で一兆円の売上を稼ぎ、さらに、有名ブランドとコラボし、さらに、ユニクロに続いてg.u. が、すでにファッション領域に浸食してきている。この、「鈍感さ」こそ、アパレル産業が「オワコン」と呼ばれる原因だと私は思う。

 会社を辞めた私は、日本中のあらゆる商社に出入りし、また、数年間商社繊維部門の立て直しに奔放した。そこでみたものは、あの伊藤忠商事をはじめ、日本中の商社が「OEMに未来はない、はやく次の収益の柱をつくらねば」ということだった。例外はなかった。

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