日本で初めてスーパーを創業した吉田日出男物語
ドミナント構築が進まなかった
だが、よい時間は長く続かなかった。
58年8月、「主婦の店」運動は、吉田派(風車系)と大木清太郎派(公開経営系)に分裂する。
吉田氏を中心に再編された主婦の店スーパーマーケット全国チェーンは、その後、ボランタリーチェーンを志向し、中京地区では初期段階から、また一部地域においても共同仕入れにチャンレンジしたことがあった。
しかしながら、当時は「スーっとできて、パーっと消える」とSMはバカにされていた時代。その言葉通り、会員の中にはあっという間に倒産する企業も少なくなく、共同仕入れは貸し倒れの危険性を常に秘めた。また、SMの商品構成比率は生鮮食品のウエートが高く、地元仕入れが大きかった。
こうした理由により、同グループが共同仕入れに本格着手することはついになく、最終的にはシジシージャパン(東京都/堀内要助社長)に加盟することで、商品調達するようになった。
結局、日本のSMを先駆けた主婦の店スーパーマーケット全国チェーンは、経営に関する精神的集合体と化し、経営者の情報交換の場になっていった。
また、吉田氏の主張する商人道に徹した「主婦の店」各社の間には、1都市1店舗が不文律として存在し、相互のエリア侵犯は許されなかった。
これではチェーンストア理論の基本となるドミナントの構築はなかなか進まない。
その結果、例えば、「主婦の店新宮店」からスタートし、ドミナントエリアの構築を急いだオークワ(和歌山県/神吉康成社長)などは忽ちのうちに袂を分かっていった。
吉田氏でさえ「ロマンチシズム的精神的要素が多すぎた」と後日振り返っているほどだった。
さらに、チェーン本部の中には吉田氏個人の研究機関でデベロッパー的な役割を果たしていた日本スーパーマーケット研究所も悪評だった。同研究所が出店に際して請求する出店費用が高額であったためで、多くの経営者は仰天した。
「先生は金儲け主義だ」とあからさまに吉田氏のやり方を非難した者もいた。
同研究所は1964年に縮小改組されることになったが「主婦の店」運動が起こった当初に掲げられた高邁で崇高な思想は、徐々に吉田氏自身の手によって歪められてゆき、やがては出店希望者もいなくなった。
「主婦の店」運動が停滞していった最大の理由はここにある。
それから30余年、1996年4月15日、吉田日出男氏は84歳で旅立った。
日本のSM第1号店を作り上げ、「主婦の店」運動を牽引、一世を風靡した人物の晩節は、その華やかな経歴と業界への貢献とは裏腹に、大きく報道されることもなく、この上なくさみしいものだった。