もはや若い流通マンにとってダイエー創業者の故中内㓛(なかうち・いさお)さんは、遠く忘れられた存在になってしまった。中内さんは、流通業界に数々の金字塔を残したのだが、あまり振り返られることもなくなった。では、一体、どんな金字塔だったろうか?
薬局から総合ディスカウンターへ
中内さんは、復員後の1948年、兵庫県神戸市三宮のガード下に「友愛薬局」を開業。駐留軍からペニシリンなどを仕入れ、安売りを開始する。
51年には実弟の博氏を社長に据えて、大阪府東区に現金問屋の「サカエ薬品」を開いた。もともとは正規ルート外で資金繰りの厳しい中小メーカーや問屋から、商品を現金で仕入れ、小売商に小分けして売る商売だった。
58年、神戸市三宮に第2号店三宮店を出店。チェーンストア化の第一歩を踏み出す。食肉、家庭電器などラインロビングを進め、総合ディスカウンターの道を歩み始めた。59年には衣料品販売も開始する。
60年、プライベートブランド(PB)の第1号、「ダイエーみかん」を発売。「2010年に日本の物価を2分の1にする」ことを目標に据えた中内さんは、PB開発にはとくに執念を見せた。
ここでPBについて、詳述しておくと、78年には白地にブルーの帯だけをつけた「ノーブランド」商品として食品13品目を発売。ナショナルブランドの3割安の価格を実現。80年には、「セービング」を発売。2つのプライベートブランドは、84年に「(ニュー)セービング」に統合され、92年に発売した1リットル198円のオレンジジュースは大ヒット商品になった。
失敗も数多く、ベルギーから輸入したバーゲンブロー(発泡酒)は「330mℓ128円」という当時では破格の低価格だったにもかかわらず、強気の発注が災いして在庫を400万ケースも抱えることに。「お願い!買ってください」という新聞広告を出している。
J・F・ケネディの言葉に感銘
話を戻す。61年、店舗数6で年商77億円。62年、全米スーパーマーケット協会の創立25周年記念式典に参加するために初渡米。J・F・ケネディ大統領の「スーパーマーケットの技術が米国の豊かな社会を支えている」という言葉に感銘を受け、進むべき方向を確信したと言われる。
63年、「ダイエーのちかい」を作成。本部を兵庫県西宮市に開設。仕入れと販売を分離した。店舗のプロトタイプをSSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア)に定め、衣食住をフルラインで扱うGMS(総合スーパー)を創造した。
64年、東京の食品スーパー「一徳」の4店舗を買収して、東京へ進出。四国、岡山県にも店舗網を拡大するも、このころから、メーカーとの対立構図が鮮明になる。
65年には花王石鹸と再販をめぐり紛争し、ダイエーへの出荷停止に(75年まで10年戦争)。また、松下電器産業との対決は有名で、30年間にわたる闘争は、94年にダイエーが忠実屋を合併し、忠実屋と松下電器産業の取引を継承する形で和解を成立させた。
71年、大阪証券取引所第2部上場。72年、大阪証券取引所第1部、東京証券取引所第1部上場。この年、年間売上高3051億円を達成して、百貨店の三越を抜いて、小売業日本一の座に就く。
80年、売上高1兆円突破。この前後から、業態の多角化を志向した。
70年にはステーキハウスの「フォルクス」が1号店を開業。75年には大阪府豊中市には、コンビニエンスストアの「ローソン」1号店を開業。79年には「ビッグ・エー」を設立し、埼玉県大宮市にボックスストアを出店するとともに書店の「アシーネ」も設立した。
85年には、主婦の買い物情報誌『オレンジページ』誌を創刊する。また、パリのプランタン百貨店と提携して「オ・プランタン・ジャポン」を設立し百貨店もグループ内に抱えることになった。
高級スーパーに会員制ホールクラブ、業態開発に心血
順風満帆と成長路線をひた走ってきたように見えたダイエーは、83年2月期の連結決算で65億円超の赤字決算に陥ることになる。「P(プランタン)C(クラウン)B(ビッグ・エー)」の3社が足を引っ張ったためだ。
このときに、日本楽器製造(現:ヤマハ発動機)の河島博元社長をリストラクチャリングの実行責任者としてスカウト。3カ年で「V革」は達成し、ダイエーは復活した。
しかし、その後も中内さんの事業拡大意欲は尽きることなく、小売業では94年に忠実屋、ユニード、ダイナハの3社を吸収合併し、一時は北海道から沖縄県に380店舗を展開するに至った。
その他では、リッカー、南海ホークス球団、リクルート、横浜ドリームランド、マルコーなど「人に頼まれた」という理由のもと次々と買収。グループ企業180社、売上高5兆円の巨大グループに膨張した。
業態開発にも積極的で、ディスカウントストアの「TOPS」「Dマート」、高級食品スーパーの「イタリアーノ」、ウォルマートのスーパーセンターを真似た「ハイパーマート」、会員制ホールセールクラブの「KOU‘S」など続々と出店を続けてきたが、どれもうまくいかなかった。決定的だったのは「ハイパーマート」の失敗であり、「先を走りすぎ後ろを向いたらお客様がいなかった」と中内さんに言わしめた。
そして、積極拡大路線は、ダイエーに大きな有利子負債をもたらした。バブル経済の崩壊後は、大量出店や過度の投資が裏目にでて業績は悪化の一途を辿ることになる。
95年の阪神淡路大震災は、痛んだ財務諸表に追い討ちをかけた。ダイエーの被害総額は400億円にのぼり、95年2月期決算の最終損益は256億円の赤字に陥った。97年2月期決算では、上場以来初の経常赤字を計上する。
99年、味の素の社長副会長を務めた鳥羽薫(ただす)氏に約40年間務めた社長の座を譲り、代表取締役会長に専任した。しかしながら、鳥羽氏は不明朗な株取引問題が発覚して辞任に追い込まれてしまう。これを機に、中内さんも、2000年から務める取締役最高顧問も退いた。
ダイエーは04年10月に、産業再生機構に対し再建の支援を要請した。
中内氏は、流通科学大学の理事長として、後進の指導にあたる中で05年、83歳で死を迎えた――。
小売業のルールを創った、不世出のゲームクリエーター
このように歴史を振り返っていくと、中内さんが打ち立てた金字塔は、ただひとつということではなく数限りなくあることが分かる。
競技種目を変えるゲームチェンジャーではなく、競技のルールを初めてつくったゲームクリエーターであったこともわかるだろう。
とくに注目したいのは、華やかな成功よりも、それ以上に多い失敗の数々である。
中内さんの前に中内さんはいなかったから、誰もが2番手以降のプレイヤーとして、マーケットリーダーの失敗を、損失を負うことなく(=無料で)、目の当たりにすることができた。
マーケットリーダーとしての失敗の数々は、チェーンストア業界にとっての反面教師の役割を果たし、「中内さんが失敗したからこの方向に行くのはやめよう」「中内さんの方法とは変えよう」というヒントを多くの企業や経営者に与えたに違いない。
その意味から言っても、中内さんがつくった轍(わだち)とは、チェーンストア業界の発展に大きく貢献したと評価することができ、“流通の巨人”としての存在感をいまなお確固たるものにしている。