「ビジネスを創った」不世出のゲームクリエーター、ダイエー中内㓛の打ち立てた金字塔とは
J・F・ケネディの言葉に感銘
話を戻す。61年、店舗数6で年商77億円。62年、全米スーパーマーケット協会の創立25周年記念式典に参加するために初渡米。J・F・ケネディ大統領の「スーパーマーケットの技術が米国の豊かな社会を支えている」という言葉に感銘を受け、進むべき方向を確信したと言われる。
63年、「ダイエーのちかい」を作成。本部を兵庫県西宮市に開設。仕入れと販売を分離した。店舗のプロトタイプをSSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア)に定め、衣食住をフルラインで扱うGMS(総合スーパー)を創造した。
64年、東京の食品スーパー「一徳」の4店舗を買収して、東京へ進出。四国、岡山県にも店舗網を拡大するも、このころから、メーカーとの対立構図が鮮明になる。
65年には花王石鹸と再販をめぐり紛争し、ダイエーへの出荷停止に(75年まで10年戦争)。また、松下電器産業との対決は有名で、30年間にわたる闘争は、94年にダイエーが忠実屋を合併し、忠実屋と松下電器産業の取引を継承する形で和解を成立させた。
71年、大阪証券取引所第2部上場。72年、大阪証券取引所第1部、東京証券取引所第1部上場。この年、年間売上高3051億円を達成して、百貨店の三越を抜いて、小売業日本一の座に就く。
80年、売上高1兆円突破。この前後から、業態の多角化を志向した。
70年にはステーキハウスの「フォルクス」が1号店を開業。75年には大阪府豊中市には、コンビニエンスストアの「ローソン」1号店を開業。79年には「ビッグ・エー」を設立し、埼玉県大宮市にボックスストアを出店するとともに書店の「アシーネ」も設立した。
85年には、主婦の買い物情報誌『オレンジページ』誌を創刊する。また、パリのプランタン百貨店と提携して「オ・プランタン・ジャポン」を設立し百貨店もグループ内に抱えることになった。