#4 ユニー“中興の祖” 家田美智雄さん、社長としてユニーに復帰
苛烈!家田さんが出した、ユニー社長就任の条件

ユニーの経営体制はさらに混乱を極めた。
発端は1990年(平成2年)2月、西川社長は丸14年務めた社長の座を妹婿【いもうとむこ】の安井治雄副社長に譲ったことにある。自らは代表権のある会長に就き、ユニー本体の経営を安井社長が、グループ企業は西川会長が管掌することを意図した。安井氏は、入社年度では家田さんの1年先輩に当たる。
だが、わずか1年3か月後の1991年5月、安井社長を副会長に、メーンバンクである東海銀行出身で入社8年目の武藤庸之助氏を新社長に据える人事が発表された。武藤社長は安井氏の5歳年長ということもあり、業界内外を驚かせるとともに、「ユニーは、いったいどうなっているんだ?」という疑念の目が向けられた。
武藤社長体制下では、バブル崩壊の不運も重なり、16期連続で増収増益を繰り返してきたユニーに2期連続で減益を喫させてしまう。
その結果、1993年(平成5年)5月、武藤社長はわずか1期2年で退任することになる。
武藤社長退任の2か月前――。
家田さんは、突然、西川俊男会長(当時)からユニー本部に呼び出された。話の中身は想像がついていた。
会長室に入るやいなや、「社長として帰ってこい」と命令口調の声が飛んできた。
実は前年にも復帰の話があったが、この時は立ち消えになっていた。
ユーストア社長として“我が世の春”を謳歌していた家田さんは抵抗した。
「あんたが悪くしたのだから、あんたが再登板すべきだ」。
ところが、西川会長は「そんなことはできない」の一点張りで、まったく聞く耳を持たない。
しばし押し問答が繰り返された。家田さんは、長きにわたる付き合いゆえに、西川会長の胸の内はお見通しだった。
だからこそ、「(この言い方の時は)逃げられない」と察し、覚悟を決めた。
「わかりました。やりましょう」。
家田さんはうなずきながら、次の一手として、就任の条件を出した。
「もし社長をやるのであれば、代表取締役は1人にしてほしい。それと、いまの取締役は総退陣でお願いします」。
西川会長は「すべて聞く」と言った。そこまで追い込まれていたのだ。
実際、西川会長は代表権を返上、代表取締役は家田さん1人になり、その時23人いた取締役は9人が退任、1人が新任として加わり、15人体制になった。
1993年5月、家田さんは社長としてユニーに復帰する。
「ポンポン船のような企業しか経験したことがないのに、ユニーのような大きな戦艦を任されてしまった」と家田さんは就任直後に感想を述べていた。その腹の内は「『もうダメだ』と諦めていた」と後日、振り返っている。
それでも受け入れたのは、32年前に“食品の経験者”として西川会長に拾ってもらったという恩義にあった。社長就任会見では「西川に死ねと言われれば死ぬ」と発言している。
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