1995年1月17日。
故中内功ダイエー会長兼社長(当時)が東京都大田区田園調布の自宅で起床したのは午前5時30分――。テレビニュースで阪神大震災を知り、隣に住んでいた中内潤副社長(当時)を電話で叩き起こした。午前7時。浜松町オフィスセンターに到着した中内潤副社長に移動中の自動車電話から、潤氏を本部長に災害対策本部を設置せよと指示した。政府が対策本部を置く3時間も前の出来事であり、長い闘いの始まりだった。
故中内功氏が語ったダイエーの精神
その後中内功さんとダイエーは、この大震災と正面から対峙して、一民間企業の役割を遥かに超える執念と速度でライフラインを死守していく。流通業とは関係ない業種の人たちもいまだにあの時の中内さんを覚えているという。
約2か月後となる 1995年3月9日。ダイエーグループの1995年度4月合同入社式が東京郵便貯金会館(東京都)で1113人を集めて開かれ、中内さんは以下のような話をした。
「時は、あたかも天下大乱の兆しを見せている。この天下大乱は10年以上続くだろうと予想している。今年に入っては阪神大震災が発生した。円相場も1ドル50円くらいまでの円高になる可能性がある」
「ダイエーグループ自体も、この2月期の決算で265億円の赤字を計上する。震災を通じて、新しいダイエーをどう創っていくかという課題を我々はしっかり受け止めなければならない」
「今年を復興3カ年計画のスタートの年と考えたい。新入社員の皆さんも主体性を持って、この復興3カ年計画に参加していただくことをお願いしたい。この国において、本当の意味のチェーンストアを確立しよう」
「我々ダイエーグループはマーチャントとして、もう一度レーゾンデートル(存在意義)を考える必要がある。かつてのマーチャントはシルクロードを歩き、大航海時代を経験してきた。単にモノを運ぶだけでなく、文化・文明をつくり上げてきた。我々もマーチャントとして単に生活必需品を売って稼ぐだけでなく、この国における新しい文化、新しいモノの考え方をつくることに貢献することが大事である」
「日本社会の構造的転換が起きている。会社においても終身雇用・年功序列は過去の神話になり、実力の時代、プロフェッショナルの時代が始まった。何ができるかを問われる時代が来た。ダイエーグループも、プロフェッショナルの集団になることが必要である」
「生涯学習を今日から始めていただくことをお願いしたい。皆さま方一人ひとりが、創造性豊かで自主・自己責任に基づく世界の中の日本人として、一人前のプロフェッショナルに成長することをお願いしたい」
阪神大震災を教訓に-大災害との共存
こんな檄を飛ばし、入りたての社員まで鼓舞した中内さんの遺伝子はその後もしっかり受け継がれていたようで、そこから16年後の3月11日に起こった東日本大震災の際には、13日早朝から同社東北地方唯一の店舗であるダイエー仙台店(宮城県)は営業を再開させた。店頭には約3500人が列をつくった。本部から多くの社員が応援に駆け付けて商品を切らさないように努め、地元客からは称賛を浴びた。
さて、阪神大震災との闘争と復興を経て、中内さんが到達した境地は大災害との共生だ。
「この日本列島に住むかぎり、台風、地震、大火災、何時襲ってくるか誰もわからない。対策は共生しかない。共生とは馴れ合いではない。緊張した関係をもちつづけることである。ライオンとカモシカ。緊張した関係でアフリカのサバンナに共生している。大災害とわれわれも、この緊張関係が必要である」(中内さん)。
大災害と共生するためには、自然をリスペクトする必要がある。どんなに緻密で頑丈な街、建物、施設、装置を整えたとしても、大災害はその上を行くものと考えるべきだ。それが自然へのリスペクトという意味である。
1000年に一度といわれる東日本大震災のような大災害を当時は誰もが想定していなかったわけだが、実際に起こってみれば、その16年前の中内さんの言葉をなぜ、もっとちゃんと受け止められなかったのかという反省ばかりが残る。次に必ず起こるはずの震災対策として、今度こそ生かしていかなければならないと痛感させられる。