#8 北海道最強スーパーの意外すぎる過去。デフレ時代に咲いた遅咲きの花、アークス

北海道新聞:浜中 淳
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チェーンストア構想あるも、出遅れた理由

アークス図表

 ところが、大丸スーパーは肝心の多店化で完全に出遅れます。コープさっぽろが創立4年後の69年に10店目を出し、6年後の72年3月期には売上高100億円を突破したのに対し、設立では先行していた大丸スーパーの10店目出店は15年後の76年、年商100億円突破に至っては22年後の84年2月期までかかってしまいました。

 この「低速成長」の原因は、親会社の野原産業が64年に北海道を撤退するにあたり、大丸スーパーの社長を中山大五郎氏という地元の名士に委ねたことにありました。中山氏は札幌・狸小路商店街の衣料品店から身を起こし、札幌商工会議所副会頭を務める「商店街組織のリーダー」。野原産業が大丸スーパーを設立する際、中山氏に相談を持ちかけたことがきっかけとはいえ、商店街のリーダーが利益相反関係にある「スーパーの社長」に就くことになった。

 公職が多く多忙な中山氏は大丸スーパーの経営に直接タッチせず、専務に昇格していた横山氏にかじ取りを任せていました。ただし新規出店だけは、いかに横山氏が説得しても頑なに認めようとしなかった。要は「商店街のリーダー」としての立場を「スーパーの社長」よりも優先させたわけです。

 「中山社長に聞いたことがありましたよ。一体、大丸スーパーをどう思っているんですかってね…」。思い悩む横山氏に「うちに来ませんか」と声をかけたのが、コープさっぽろの河村征治専務理事(当時、故人)でした。71年の経営悪化を受けて北大生協から移籍し、2代目トップに就いた河村氏は、北大の学生寮「恵迪寮」で横山氏の1期後輩に当たります。コープさっぽろの再生を担う河村氏は、プロパー役員の実行力に物足りなさを感じており、旧知の横山氏の手腕を借りたいという思惑があったのです。

“北大愛”ゆえに、コープさっぽろ移籍を翻意

北大の著名な学生寮の名を借りた社員寮「ラルズ恵迪寮」。横山氏は学生時代に恵迪寮の寮長を務め、寮費を滞納している先輩学生からも臆せず取り立てを行い、赤字財政を立て直したという
北大の著名な学生寮の名を借りた社員寮「ラルズ恵迪寮」。横山氏は学生時代に恵迪寮の寮長を務め、寮費を滞納している先輩学生からも臆せず取り立てを行い、赤字財政を立て直したという

 これが冒頭紹介した移籍話につながるわけですが、横山氏は先の著書で<一時は、辞表を提出する覚悟もできていた>のにそうしなかった理由をこう記しています。<私を思いとどまらせたのは、私が誘い入れた北大時代の仲間や後輩たちの顔だったのである>。

 自社の独身寮に「ラルズ恵迪寮」と命名したことからも分かるように、横山氏ほど北大への母校愛を口にする経営者は地元でも珍しいほどです。それゆえ同じ北大を由来とするコープさっぽろには、親近感以上に「絶対に負けたくない」という思いが強かった。

 コープさっぽろは、北大生協という全国有数の経営基盤を持つ大学生協のバックアップのおかげで、創立時から資金調達の苦労もなく大型投資を進め、60年代後半の5年間で北海道トップの流通業者に上り詰めました。同じころの横山氏は「カネがなく、過剰在庫も品切れも許されないから、毎日の仕入れを考えるだけで胃に穴が開いた」と言います。

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