北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けている。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第6回は、北海道現象が起こるための大前提として、経済合理性に基づいて行動する北海道の消費者像を、強力な2つの老舗百貨店を打ち破った、“無名の百貨店”の戦略を通じて明らかにしていきます。
山形市長の“百貨店の買い支え呼びかけ”に強い違和感
今年2月、山形市の佐藤孝弘市長、山形商工会議所の清野伸昭会頭らが市内で緊急記者会見を開きました。目的は、経営再建中の老舗百貨店・大沼に対する支援の呼びかけです。
「山形から百貨店の灯を消すなとの思いで各機関と連携し、市民にも呼びかけていきたい」「市民に愛される組織を何としても守っていかなければならない」「買い支えで資金繰りに貢献したい」-。佐藤市長は、地域が買い支えることによって、大沼を守ろうと山形市民に訴えました。
2017年2月期決算で4期連続の経常赤字を計上した大沼は、同年12月に主力銀行の主導で、東京の投資ファンド・マイルストーンターンアラウンドマネジメント(MTM)の出資を受けることで合意し、経営再建に着手しました。
ところが、大沼の再建よりも先にMTMの経営が悪化。出資額が計画の半分の3億円にとどまった上、「コンサルタント料」などの名目でそのうちのかなり金額がMTM側に還流し、18年中に予定していた山形本店の改装が手つかずのまま1年が過ぎてしまいました。これに危機感を抱いた山形市長が起こした行動が、冒頭の記者会見だったというわけです。
<官民挙げて地元老舗百貨店を支え、守ろうという動きは、地域愛にあふれる県民性の表れであり大いに賛同したい>(山形新聞、19年3月8日社説)。市長の行動は、地元では好意的に受け止められました。しかし、山形と縁もゆかりもない北海道の一記者の冷めた目で見たとき、行政のトップが特定の民間企業に肩入れする発言には疑問を禁じ得ませんでした。
MTMというパートナーを選んだのは大沼の経営判断であり、想定通りに事が運ばなかったのは企業の自己責任にすぎません。そもそも市民の買い支えで何とかなるのであれば、それ以前に4期続けての赤字になどなっていないでしょう。事実、MTMから従業員を主体とする新体制に移行した大沼の経常赤字は直近の決算で6年連続にまで伸び、状況はさらに厳しくなっているのです。
「百貨店の灯を消すな」という「地域愛にあふれる」応援の言葉にも違和感があります。地方百貨店の衰退は明らかなのだから、時代の変化に合わせた業態転換(例えば、ホテルと商業テナントで構成される複合施設など)で生き残りを目指す考え方もあるはずです。それなのに「百貨店の灯を消すな」との言い方で市民の買い支えを求めてしまえば、企業側は他の選択肢をとりにくくなる。これでは、贔屓の引き倒しになりかねません。
こうした「灯を消すな」的な感情論が経済合理性の先に立つのは、1700年(元禄13年)の創業以来、319年もの間、地域とともに歩んできた老舗百貨店に対する地元の人たちの思い入れが強すぎるからでしょう。
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たった7年で「無名の新参者」が地域一番店になる、北海道の特異性
たった7年で「無名の新参者」が地域一番店になる、北海道の特異性
この事例が示すように、小売業の経営は、経済合理性と合致しない「しがらみ」に左右されることが少なくありません。地域に愛される老舗の歴史と看板は大切にすべきですが、それに安住して、いつのまにか時代に取り残されてしまう企業もまた多い。それでも日銭を稼げる小売業は、突然「ジ・エンド」とはなりにくいから、新陳代謝が進まない-。地方小売業の典型的な姿ではないでしょうか。
このような観点から、「北海道現象」がなぜ北海道で起きたのかを捉え直すと、重要な事実に気付かされます。北海道現象とは「不況によって消費者の生活防衛意識が高まり、価格やサービスを厳しく選別する結果、各業態のトップ企業が独り勝ち状態になる」ことですが、これが成り立つための絶対条件がある。消費者がしがらみにとらわれることなく、経済合理性に徹して行動することです。
Bチェーンをずっと好きで利用してきたけれど、あるきっかけでAチェーンの方がいい店だと気付いたら、あっさり乗り換えてしまう。北海道の消費者が「冷徹な選択眼」に基づいた行動を取り続けたからこその独り勝ち現象であり、北海道で起きたことが、他の地域で起きない理由の一つでしょう。
北海道の住民は、先住民族であるアイヌの人たちを除けば、基本的に「よそ者」の集団です。明治政府が開拓使を設けてから150年ほどしかたっておらず、他の地域と比べ、人間関係や歴史のしがらみが希薄な土地柄と言えるでしょう。よそ者同士、最果ての地で生き抜いていくには、妙なしがらみに囚われてはいられない-。そんなクールな物の見方が、消費者マインドの根底にあるのです。
北海道における消費者の「冷徹さ」を最もよく示したのが、百貨店業界の盟主交代劇です。札幌では、1872年(明治5年)創業の丸井今井札幌本店が地域一番店に君臨し、これを1932年(昭和7年)開店の札幌三越が追う構図が戦前から続いてきました。丸井今井は、山形における大沼と似た立ち位置の百貨店であり、地元では「丸井さん」と呼ばれて愛されてきた店です。
ところがこの構図は、大丸が札幌店を開店した03年に一変します。大丸、丸井今井、三越の年間売上高の推移を示した<グラフ>を見れば、何が起きたのかは一目瞭然でしょう。
大丸と言えば、関西では老舗中の老舗として知られていますが、開業前の北海道ではほとんど知名度のなかった企業です。それが、05年に三越の売上高を上回り、09年には丸井今井も抜き去りました。戦前から道民に支持されてきた2つの百貨店は、たった7年で「無名の新参者」に地域一番店の座を奪われたのです。
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丸井今井と三越を足しても 今や大丸1店舗にかなわない
丸井今井と三越を足しても
今や大丸1店舗にかなわない
顧客流出で経営が悪化した丸井今井は09年に民事再生法の適用を申請し、三越伊勢丹ホールディングスの傘下に入りました。11年には丸井今井札幌本店と札幌三越の共同運営会社「札幌丸井三越」が誕生。かつてのライバル店同士が手を組んで対抗することになりましたが、その後も大丸の勢いは全く衰えません。昨年にはとうとう札幌丸井三越の売上高をも上回り、丸井今井と三越の2店を合わせても大丸1店に及ばないところまで差がついてしまいました。
この鮮やかな独り勝ちの背景として見逃すことができないのが、大丸のしたたかな戦略でした。札幌店出店当時の社長だった奥田務氏は、北海道で「無名企業」であることを逆手に取り、従来の百貨店の常識を覆す新しい店づくりに挑んだのです。
従業員数を店舗規模がほぼ同じ神戸店の半分の500人に抑え、うち300人をパート化。本社対応が可能な間接部門は圧縮し、利幅の薄い外商部門は持たず、レジ打ちの要員はすべて外部委託する…。徹底した「ローコスト型店舗」を築き上げました。
北海道では最後発ゆえ、開業当初は著名高級ブランドの出店が少なく、「弱点」と指摘されもしましたが、それも承知の上。人件費を切り詰め、少ない売上高でも利益を出せるから、もともと高額なブランド品に頼る必要がない。むしろ、おしゃれで値ごろ感のある品ぞろえが、経済状況の厳しい北海道の消費者の心をがっちりつかんでいったのです。
百貨店は、高額品を丁寧な接客で売るのを基本としてきた業態です。従業員数を大胆に減らし、高額ブランドに頼らない大丸札幌店は、デフレ時代の百貨店の方向性を示す革新的店舗でした。とはいえ、「老舗」としての立ち振る舞いが求められる関西だったら、いきなりこのような思い切った店づくりはできなかったでしょう。これは、大丸の知名度がなく先入観もない札幌だからこそ可能だった「実験」でした。
大丸にとって幸いだったのは、しがらみに囚われることなく、時代の流れを先取りした新しい店をきちんと評価できる消費者が北海道に存在したということです。
開業翌年の04年から昨年までの15年間で、大丸札幌店の売上高が前年を下回った年は2回しかありません。構造不況業種と呼ばれる百貨店としては珍しい「右肩上がりのグラフ」は、大丸の実験精神と道民消費者の合理性による「合作」と言えるでしょう。