この業界に足を踏み入れて約30年。ありがたいことに、創業者を含め、大抵の重鎮と言われる方々とはお会いさせていただき、お話を伺わせていただいてきた。しかし、残念なことにそれが叶わなかった方が何人かいらっしゃる。
その1人が流通サービス企業集団のセゾングループを築き実業家として名を馳せ、辻井喬のペンネームで詩人・小説家としても活躍した堤清二さんだ。
総売上額4兆円という一大企業グループを築き上げる
堤さんは、1927年(昭和2年)、西武グループの創始者で衆議院議員だった堤康次郎氏の次男として誕生。東京大学経済学部時代は、日本共産党に入党していた(後、除名)。
1954年、西武百貨店に入社。康次郎氏の死後、異母弟の堤義明氏が西武グループ総帥の座を継いだため、自らは西武百貨店(現:セブン&アイ ホールディングス傘下)を中心に西友(現:ウォルマート傘下)、ファミリーマート(現:伊藤忠商事傘下)、無印良品(良品計画:筆頭株主はJPMORGAN CHASE BANK)、ロフト(現:セブン&アイ ホールディングス傘下)などを次々と設立し多店舗化を進めた。
さらに《生活総合産業》のビジョンを掲げ、小売業から不動産、金融や文化、レジャーにまで事業領域を拡大。パルコ(現:J.フロントリテイリング傘下)、クレディセゾン(筆頭株主は日本マスタートラスト信託銀行)、インター・コンチネンタル・ホテルズなどをグループとして統括、総売上額4兆円という一大企業グループに育て上げた。
一方では作家として執筆活動にも精を出し、1955年に詩集『不確かな朝』で文壇デビュー。小説やノンフィクション分野では『彷徨の季節の中で』、『虹の岬』、『父の肖像』、『叙情と闘争-辻井喬+堤清二回顧録-』、『ポスト消費社会のゆくえ』(上野千鶴子共著)などを上梓。また、堤清二の本名では『消費社会批判』を刊行した。
百貨店で客をどかし、引かれた赤カーペットの先にいた人は
しかし、バブル崩壊によりセゾングループは、超巨額の負債を抱え、堤清二さんは1991年にグループ代表を辞任。本業の小売業回帰を図るために、多角化してきた事業を切り売りして活路を見出そうとしたが失敗。セゾングループは解体するに至った。
2000年には、保有株の処分益など私費100億円を不良債権処理に供出し話題を集めた。日本リテイリングセンターの故渥美俊一さんは、私費を投じたことを非常に高く評価した。
そして、経営の第一線を退いた後は、セゾン文化財団理事長として若手芸術家の育成に力を注ぐとともに、作家活動に専念していた。
このように年表を繰ってみると、私のダイヤモンド・リテイルメディア(当時はダイヤモンド・フリードマン社)の入社は1992年であり、堤清二さんとは入れ違いであることが明らかになる。どうりでお会いできないわけである。
ただ、実は全く違う場所で、接近遭遇したことがある。
今から31年前の1989年、秋田県の本金西武(現:西武秋田店)の階上にある秋田ビューホテルの入り口でエレベータを待っていたときのことだ。
本金西武は、秋田市の百貨店である本金と西友(東京都)の出資で設立された企業。1988年に西武百貨店の子会社になったばかりだった。
すると黒いスーツを着た2人の男が「そこをどいてください」と言う。
「お客に対して『あっちにいけ』とは失礼だなあ」と腹立たしく思っていると、2人の男は実にスピーディーに赤いカーペットを敷き始めた。
「なんだ、なんだ」と訝しがっていると、1人の小柄な男性が一瞬のうちに目の前を通り過ぎ、私が乗るはずだったエレベータに数人で乗り込んで勝手にドアを閉めてしまった。
「地元の有力者? 国会議員? 大統領?」と想像をめぐらせたが誰も思い浮かばない。
売場に立ち寄り、店の方に聞くと、「ああ、それは堤清二さんですよ。今日、いらっしゃっているはずだから」との返事――。当時の堤清二さんは、セゾングループの代表であり、グループも絶頂期。ようやく「なるほど」と合点がいった。
たぶん、側近の従業員の行き過ぎた行為であり、別に堤清二さんが指示したわけではないのだろう。
けれども、「こんな企業はダメだよなあ」と思ったら、数年を待たずに本当にダメになってしまったというのがこの話のオチである。
もっとも、 それもこれも、今となっては、懐かしい思い出である。