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#11 コープさっぽろ救済を通じ「日本の生協の危機」を回避した日本生協連の賭け

北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けています。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第11回は、コープさっぽろの経営危機とそれを救った日本生協連にスポットを当てます。日本の生協の存亡を賭けた綱渡りのドラマをご覧ください。

1970年代と90年代の2度の経営危機を乗り越え、北海道市場でイオン、アークスと並ぶ「3極」の一角を占めるコープさっぽろの本部(札幌市西区)

90年代終わりに噴出した、生協危機の本質

 1990年代後半、日本の生協は大きな曲がり角を迎えていました。放漫経営による経営難が各地で続発したのです。

 97年、練馬生協(東京都練馬区)が経営破綻し、組合員1万2000人が預けた1億3300万円の出資金がふいになりました。同じころ、大阪いずみ市民生協(堺市)では、常勤トップの副理事長が、生協が「幹部研修寮」の名目で建てた豪華建築物を私邸として利用するなどの「生協資産の私物化」が表沙汰になります。

  98年にはコープさが(佐賀市)が輸入牛を十勝牛と偽って販売する不祥事が明らかとなり、翌99年には決算報告書に記載のない累積欠損が53000万円もあることが発覚しました。コープふくしま(福島市)も同年、減価償却費の計上不足によって23億円の特別損失が発生し、経営危機に陥ったのです。

 前回説明した通り、生協に出資する組合員は、その生協を利用する一般消費者であり、「非営利」が建前です。当時問題を起こした生協に共通していたのは、こうした協同組合の特質を経営側が都合良く解釈し、放漫経営にいそしんでいたということでした。

「協同組合経営のだめな点は、『組合員のため』という“美しき理念”をお経のように唱えさえすれば、どんな非効率な経営でも許されてしまうところだ」。こう喝破したのは、札幌の食品スーパー・ホクレン商事の元社長、佐々木俊也氏(故人)です。佐々木氏はホクレン農業協同組合連合会で生活事業本部長を務めた後、子会社のホクレン商事社長となり、道内で10位以下だった売上高を96年に3位に引き上げた実績の持ち主。協同組合、株式会社双方の利点、欠点を知る人だけに説得力ある指摘です。

 非営利組織の協同組合は、利益は出なくても社会に必要とされる事業を行うのに向いていますが、一歩間違うと「組合員のため」という大義名分があれば、何をやっても許されるということになりかねません。

 株式会社なら、出資額の多い株主はその比率に応じて経営に影響力を与え、経営トップを解任することもできます。生協の場合、店や宅配を利用するために出資している一般消費者が企業株主のような経営監視ができるはずもなく、経営者の暴走を抑止するのは極めて難しい。

  それをいいことに緊張感のない経営を続け、「組合員のため」と念仏を唱えながら、組合員の財産を危機にさらしたのが、当時の問題生協の経営者たちだったのです。

 「組合員の信頼」に支えられた生協の経営者は本来、株式会社の経営者を凌駕する経営判断やモラルを有する「事業家」でなければ務まりません。ところが、90年代までの生協には、そうした資質を持つトップがほとんどいませんでした。

死の淵へと突き進んだ90年代のコープさっぽろ 

 90年代というと、60~70年代に各地で生協を立ち上げた「創業者世代」がトップに君臨していた時代です。彼らは消費者運動のリーダーとして、家庭の主婦らを組織化した有能な「運動家」ではあったが、事業の現場を経験せずにいきなりトップとなったため、店舗運営などの実践的な知識や技術に欠ける人が多かった。80年代まではそれでも何とかなっていたのですが、バブル崩壊とともに一気に問題が露呈したというわけです。

 そんな「生協の危機」を象徴する存在が、コープさっぽろでした。70年代初頭の経営悪化からの再生を担い、北大生協専務理事から登用された河村征治理事長(故人)は、やはりスーパーでの現場経験がない「いきなりトップ」型の経営者でした。

 北海道への攻勢を強めるダイエーに対抗して総合スーパー(GMS)タイプの大型店を増やし、「組合員のため」のスポーツクラブや旅行業、観光施設といった多角経営を指揮。就任当時119億円(71年度)だった事業高を国内生協2位の1689億円(95年度)にまで引き上げました。

 その一方で、バブル景気に乗って借金を重ねた結果、有利子負債は850億円規模に膨張。GMS展開に伴って重衣料や家電などに手を広げ、「本業」の食品の品揃えや品質管理がおろそかになるという致命的な失敗を犯してしまいます。バブル崩壊後は、借金の利払いや大型店の償却負担が重荷となって老朽店舗の改装も進まず、組合員の「生協離れ」が加速していきました。

 それらにも増して問題だったのは、経営難の実態を隠そうとしたことです。93年度には赤字に転落していたのに、計上すべき経費を次年度に繰り延べ、資産を関連会社に売却するといった会計処理で黒字決算をつくっていた。組合員の信頼をつなぎとめるには出資配当を毎年出す必要があり、そのためには決算を赤字にはできない-という理屈で決算操作を常態化させていったのです。 

 経営責任を問われた河村氏は96年に退任しましたが、「赤字隠し」をやめたところ累積欠損が100億円規模に達することが判明。自力再建は不可能と悟ったコープさっぽろが支援を仰いだのが、生協の全国組織、日本生活協同組合連合会(日本生協連)でした。

 他の生協が反発しても、日本生協連が救済に動いた事情

日本生協連のコープさっぽろへの融資額は最終的に160億円を超えた。1998年から日本生協連専務理事だった内舘晟氏、2003年から同常務理事だった松村喬氏がコープさっぽろ理事長を務め、松村氏が退任した07年に日本生協連向け債務を返済。10年かけて再建を終了した(写真は東京・渋谷の日本生協連本部)

 拡大路線によって自滅したコープさっぽろが救済を求めたことに対しては、他の生協の反発が強かった。にも関わらず、日本生協連は98年春、店舗改装資金の名目で100億円の緊急融資を決定します。そればかりか常勤トップの内舘晟(うちたて・あきら)専務理事(故人)が自らコープさっぽろに出向し、理事長として陣頭指揮をとる異例の全面支援態勢を敷いたのです。

  この決断の背景には、直前に北海道拓殖銀行が経営破たんし、北海道経済が混乱を極めていたことがありました。「自己責任論」でコープさっぽろをつぶしてしまうと、当時85万人の組合員が拠出していた出資金・組合債合わせて326億円が失われ、従業員や取引先への影響も避けられません。拓銀に続いて国内2位の生協が北海道の社会的混乱を引き起こすことになれば、日本の生協の存在そのものが全否定されかねない-という危機感が超法規的な支援を決断させたのです。

 コープさっぽろにとって幸いだったのは、トップに就いた内舘氏が、当時の生協では希有な「事業家」だったことでしょう。東北大生協専務理事だった70年に宮城県民生協(現みやぎ生協)を立ち上げた「創業者世代」の1人ですが、渥美俊一氏の名著「ビッグストアへの道」全10巻の内容をスタッフ全員に暗記させたという逸話があるほど、チェーンストア経営の基本に徹した経営者でした。

 03年までの5年間、理事長を務めた内舘氏は①希望退職実施による人件費削減②利益率の高い宅配事業の強化③不採算店舗の閉鎖やリーシング④家電などの非食品分野からの撤退⑤食品特化型店舗への改装-などの再建策を実行。02年度には営業利益38億円と国内生協トップに立つまでに導きます。このうち⑤に挙げた「食品特化型店舗への改装」を担当したのが当時、若手幹部だった大見英明・現理事長でした。

 

大見現理事長が主導した「おいしいお店」路線の成功

経営危機さなかの1997年に食品特化型店舗として改装され、成功を収めたコープさっぽろ新道店(札幌市東区)。「新道店モデル」は、コープさっぽろ復活の原動力となった

 大見氏は、経営危機さなかの97年に新道店(札幌市東区)の改装を提案。食品のSKUを1.5倍に増やすとともに、中華料理などのカテゴリーごと調味料から生鮮素材までを1カ所にまとめる用途別陳列、総菜などで直営売場とテナントを競わせるダブルトラッキング方式を採用し、改装前に比べ来客数を30%、売上を40%伸ばした実績がありました。この「新道店モデル」は、内舘体制下で「おいしいお店」としてフォーマット化され、今日のコープさっぽろ店舗の基礎になっています。

  前回紹介したように、大見氏はコープさっぽろで店舗での現場経験を積み重ね「事業マインド」を養ってきた新しい世代の生協経営者です。生協の枠を超えて交友関係を広げ、新しい知識をどん欲に取り入れるフットワークの軽さも持ち合わせており、その成果を生かした数々の事業改革によってコープさっぽろの競争力を高めてきました。

  代表的な改革として挙げられるのが、取引先800社に働きかけて2000年に始めた「MD研究会」「MD協議会」です。これは取引先にPOSの販売データを全面開示した上で、商品展開や売場づくりの提案を求め、全店で実践する取り組みです。好結果が出れば、過去の実績とは無関係に取引額を増やすというインセンティブを設けたことで、取引先が競うように優れたアイデアを出し、売場は常に改善され、活気を保っています。

 従来、スーパーのバイヤーが多種多様な商品を経験則や勘で仕入れていることに疑問を持っていた大見氏は「それぞれの商品を知り尽くした取引先に話を聞く方が合理的だ」と考え、それまでの商慣習を一変させてしまったのです。

 大見氏は若手時代、中規模店の水産担当、本部のコメや酒のバイヤー、大型店の店長…などと毎年のように職場が変わり、「なんで自分だけこんなに頻繁に異動させられるのか」と不思議に思っていたと言います。これは当時理事長だった河村氏が、大見氏の将来性を見込んで、店舗事業の現場をひと通り経験させたというのが真相だったようです。

 ワンマン経営者として知られた河村氏はプライドが高く、決して他人に弱みを見せない人でしたが、自分に現場経験が足りないことを誰よりも自覚し、大見氏に将来を託そうとしていたのかもしれません。

 一方、日本生協連の最高幹部の立場にありながら、コープさっぽろの再建に自ら乗り出した内舘氏は当時の心境について「生協が21世紀に通用する事業であることを証明したかった」と生前に語っていました。北海道で3極体制の一角を占めるまでになったコープさっぽろの復活の陰には、日本の生協再生を賭けた綱渡りのドラマがありました。