#8 北海道最強スーパーの意外すぎる過去。デフレ時代に咲いた遅咲きの花、アークス

北海道新聞:浜中 淳
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サイドビジネスの養豚から生まれたアークス

1961年にオープンしたダイマルスーパー1号店の山鼻店(「ラルズ35年史」より
1961年にオープンしたダイマルスーパー1号店の山鼻店(「ラルズ35年史」より)

 「北海道価格」と呼ばれた道内の不当な高物価が解消に向かったのは、65年にコープさっぽろの創立以降である-と当連載の2回目で書きました。それではアークスはいつ設立されたのかと言えば、それより4年も早い61年10月のことでした。 

 設立のきっかけは、東京の海産物商社・野原産業の北海道支店が60年に札幌近郊で始めた2000頭規模の養豚事業に遡ります。主力商品の魚かすの売れ行きが輸入物の影響で落ち込んだため、サイドビジネスとして養豚業を立ち上げ、売れ残った魚かすを飼料として消化しようとのアイデアでした。飼育した豚は61年春にハムメーカーに出荷する約束もできていました。

 ところが出荷する直前に豚肉相場が急落。メーカーとの約束は反故にされてしまいます。宙に浮いた2000頭分の豚肉をどう処分したらいいのか-。「最近流行のスーパーマーケットを出せば、売りさばけるのではないか」。にわかに社内で浮上したアイデアを基に野原産業が札幌で立ち上げたのが大丸スーパー(設立時の社名は「ダイマルスーパー」)でした。

 たった1年の間に、売れ残った魚かすが豚肉に化け、さらにスーパーマーケットに化けた…。こんな冗談のような経緯によって、現在のアークスは誕生したのでした。

 創業時の大丸スーパーの役員は野原産業の経営幹部が兼務し、社長以下6人全員が非常勤でした。そのため1号店の山鼻店の運営は新規採用した若い社員たちに任されましたが、開店早々トラブルに見舞われます。61年暮れに最初の棚卸を行ってみると、仕入れたはずの商品の数が合わず、大赤字になってしまいました。肉や魚をさばくために雇った職人が入荷した商品を勝手に横流しし、代金を自分たちの懐に入れていたのが原因です。

若干26歳の“横山清”営業部長

 「職人をしっかり管理できる人間が必要」-。店からの要請を受け、親会社の野原産業は一人の若手社員を「営業部長」として送り込みます。それが当時26歳の横山氏でした。今では創業者然としている横山氏も実は「出向社員」だったということになります。

 横山氏は旧産炭地の芦別市生まれ。芦別高校卒業後、炭鉱労働者を経て北大水産学部に進学した異色の経歴の持ち主です。水産学部は函館にキャンパスがあり、横山氏は教養課程の2年間を札幌、学部の2年間を函館で過ごし、学生寮に入寮していました。卒業後に就職した野原産業から思わぬ形で大丸スーパーに出向し、現場責任者にさせられた横山氏は、北大時代の寮仲間を呼び寄せ、手探りでスーパー経営を開始するのです。

 連載の2回目では、北大生協で活動していた学生たちを中心に事業化したコープさっぽろが「北大発の学生ベンチャー」に近い性格を持っていたと指摘しました。実は現在のアークスも北大の仲間同士で新規事業に挑んだという点で似た背景を持つ組織であり、このことが今日の宿敵関係につながっていきます。

 もっとも、この「似たもの同士」の歩みはまさにウサギとカメほどの違いがあった。渥美俊一氏のチェーンストア理論を忠実に実行し「高速成長路線」を突き進んだコープさっぽろに対し、大丸スーパーは70年代に入っても中堅どころに甘んじていました。

 横山氏もチェーンストア理論の有効性には早くから気付いていました。65年春に商業界箱根セミナーに初参加し、渥美氏の講演を聞いた横山氏は<チェーンストア構想が頭の中ではっきりとした形を取り始めた。「チェーンストア理論を基盤とした多店化を進めなければ駄目だ」。そう痛感したのである>(「ラルズ35年史」)

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