2度の危機を乗り越えた優良SMエコス 創業者・平富郎会長を支えた「3人の先生」

2021/08/18 05:55
    千田直哉
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    エコス(東京都/平邦雄社長)は、1957年(昭和32年)に同社創業者の平富郎会長が青果物の行商を始めるところからスタートした優良食品スーパー(SM)企業だ。

    「昔は長男が家業を継ぐのは当たり前で、私も若いころから八百屋を手伝っていました。父親はまじめな正直者のお人好し、母親は祖父譲りの働き者でした。そんな父親が軍隊で身体を壊して復員。私が16歳のころ、膨らんだ借金で家業の八百屋が行き詰まりました。夜学にも行けなくなり、やむなく3年間、リヤカーで引き売りをして父親の借金を払いました。私が20歳になった時に社名を『八百元』から『たいらや』に変更しました」(平氏)。

    2度の危機を乗り越えたエコス

     1959年に12坪の青果店「たいらや」を開業し、196512月に有限会社たいらや商店を設立して法人化。1977年、多摩ニュータウンにSM1号店の愛宕店を出店した。以後、着実に出店を重ねるとともに、M&A(合併・買収)を繰り返し、2度の商号変更を行い、1999年のハイマート(茨城県)との合併を機に商号をエコスとした。

     この間、会社存亡の危機は2度あった。

     1度めは、青果テナントとして入っていたSM企業から、「1年以内に出て行ってくれ」と言われた時だ。長い付き合いのあるSMで共に栄えてきた仲だった。ある時、そのSMの社長から、「生鮮食品売場を直営化しないと事業拡大は望めないとコンサルタントに言われた。本当か?」と聞かれた。正直に「本当です」と答えると、数日後に「直営にすることにした。1年以内に出ていってくれ」といきなり最後通告を突きつけられた。当時の年商は7億円ほどあったが、そのうちの5億円は、そのSMでの売上だった。平氏は、受け身で他律的であるテナントをやっていても自社の未来像が描けないと考え、直営でのSM経営を決め、絶体絶命の危機を何とか乗り切った。

     2度めは、1992年3月に味好屋(みよしや/埼玉県)と合併した時だ。「1991年の年末までは、バブル経済で日本中にお金が有り余っていました。本業の商売をするよりも株を買ったほうがいいと多くの企業が考えていた時期です。ところが1992年に入ったとたんに状況が一変しました。3月の合併時には日本からお金がビタ一文なくなってしまったのです。合併前までは、味好屋の持つ30億円の借金は『担保を売ればいい』と、たいしたことはないと考えていましたが、バブル経済の崩壊で担保の価値がゼロになり、借金だけが重く圧し掛かりました。そうするとどこの銀行もお金を貸してくれません。これには本当に参りました。八百屋の青果市場は貸してくれない、それまで付き合いがあった地方銀行も貸してくれない、都市銀行も当然貸してはくれませんでした。その時は枝ぶりのいい木を探し回っていたものです(笑)」(平氏)。

     それでも毎月出していた損益計算書を見て、まず商工組合中央金庫、続いて埼玉銀行が融資してくれることになり、2度目の危機を切り抜けた。味好屋との合併を無事に終え成功したと見るや、それまでそっぽを向いていた都市銀行が「融資する」と申し出でてきた。「金融機関との付き合い方を心底学ばされた出来事でした」と平氏は振り返っている。

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