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#3 ユニー“中興の祖” 家田美智雄さん、ユーストアをつくる

ユニーの“中興の祖”の1人である故家田美智雄さんという流通業界最強のサラリーマン経営者を全6回で振り返る連載・小売業サラリーマン太閤記。第3回目は、九州で偶然見つけた食品小売フォーマットを見て閃いた家田さんがユーストアをつくり、社長としてユニークな経営で業容を拡大していった話だ。型破りでありながら、理にかなった、数々の家田流経営術を披露したい。

ユーストア外観

SSMの先駆け、ユーストア誕生のきっかけ

 家田さんが、ユニーで人事部長を務めていたのは約2年。そのわずかな期間に九州の流通を視察する機会があった。

 それがユニーグループの食品スーパー企業、ユーストアの生まれるきっかけになる。

 これまでユニーは、郊外や都心部に大型GMS(総合スーパー)を大量出店することで成長を遂げてきた。

 しかし、年を経るごとに大規模店舗法による出店規制は厳しくなっていった。大手といえども思惑通りの出店はならず、開業までに10年以上の歳月を要する物件も少なくなかった。

 チェーンストア企業の成長の要諦の1つは出店だ。成長しなければ、毎年確実に上昇する人件費すらカバーできないからだ。

 そんな折に訪れた九州を「何か中部エリアに似ているな」と興味深く観察した。

 衝撃を受けたのは、売場面積450坪(1500㎡)以下の食品スーパーともGMSとも何とも言えぬ生活密着型の店舗を出店する動きが活発化していたことにある。

 「なるほど、こういう手があるのか」。家田さんは膝を打った。

コンセプトは「夜逃げしやすい店舗」

 帰社するとさっそく企画書を起こした。大型GMSがカバーできていない立地に、売場面積450坪で「食」を軸に必要最低限の「衣」「住」も扱う「生活便利店」を展開し、ユニーとの相乗効果を図りたい――。会社に提案した。

 そのころ家田さんは“ミニGMS”と称していたが、それは1990年代中盤に大流行することになるSSM(スーパー・スーパーマーケット〈大型食品スーパー〉)の先駆けであった。

 「生活便利店」のチェーン化企画は、簡単にユニーに承認され、昭和52年(1977年)6月、ユニーの子会社としてユーストアが設立された。

 しかし社長の人選は難航をきわめた。人事部長の家田さんがユーストアの社長を指名しなければいけない立場にあったけれども、どうしても適任者が見当たらない。

 社内では、「(候補がいないならば)言い出しっぺがやるべきだろう」ということになり、家田さんにお鉢が回り、社長に就くことになった。

 ところが、ユーストアのユニー内部での評判はとんでもなく悪く、誰も行きたがらない。

 理由は2つある。

 1つは店格の問題である。当時は「小売業の王様は百貨店」と言われた時代。次に来るのが、その廉価版ともいえるGMSだ。ユニーは名古屋駅前の一等地に本部を構える地元の名門。一方、食品スーパーの位置づけは決して高いものではなく、女性社員に「ユーストアに来てくれよ」と頼むと急に黙ってしまい、うつむかれてしまう。結局、1対1の勧誘策は不発に終わり、ユニーから女性社員は1人も来てくれなかった。

 2つは合併企業であることの問題だ。「ユーストア=気に入らない企業の出身者をユニーから体よく追い出すための受け皿企業」という風評が社内にはびこり、積極的に転籍の手を挙げる従業員はいなかった。

 追い討ちをかけるように、産声を上げたばかりのユーストアに大ピンチが訪れる。

 ユーストアを立ち上げた理由の1つには、「大型GMSを出店するに足る用地はなかなか確保できないが、450坪程度の“ミニGMS”を出店する土地ならいくらでもある」というユニーの店舗開発部隊の報告がベースあった。

 しかし、実際に蓋を開け、開発部隊が持つ不動産物件を精査してみると使えるものは、なんと1つもなかった。大半は不動産会社が持ち込んだ出店とは関係のないものばかりだったのだ。

 「資料を机の上に積んどるやつは絶対に仕事をしていない」とこの時、家田さんは心に刻んだ。

 それでも、船はすでに港を出ている。カネもない。

 さて、どうしようと苦肉の策として生まれてきたコンセプトが「夜逃げしやすい店舗」だ。

「『夜逃げがしやすい』というのは荷物が少ないこと。投資が軽いという意味。接続している道は暗いこと。明るいところは夜逃げしたらばれちゃうから。そして立小便できるところ。街中でやったら捕まりますから、そのくらい辺鄙なところということ――」。

 そんな条件を突き詰めていくと、周囲にまったく何もないド田舎(=ルーラル)という立地にたどり着いた。

変哲のない売場に見えすぎてライバルが革新性に気づかない

 何もない安い広大な土地に売場面積450坪以上、駐車台数200台以上、坪当たり投資金額40万円未満(当時)の店舗を出し、田舎に住む人たちの毎日の生活を満たす。

 ユニーの既存店舗と競合しないばかりか、競合自体がまったくなく、需要を独り占めできる。

 建築コストを最低限に抑えた普請でも、地元住民からは「こんなところによくお越しくださった」と感謝の意をもって大歓迎される。そもそも家田さんには「店舗は雨露がしのげればいい。お客さまは店ではなく、商品を買いに来るのだから」という信念があった。

 もちろん店内はノーフリル。飾りっ気はまったくない。

 不良在庫、不動在庫を持ちたくなかったから、商品は親会社ユニーの売れ筋商品ばかりに絞り込んだ。安く仕入れるために商品は完全買い取り返品なし――。

 「売れるものを、売れるときに、売れる場所で、売れるだけ、売る」という“四売の原則”を説き、商品を高速回転させて、また儲ける。

 一方では、大きな労働力と商品ロスリスクを強いられる水産部門と総菜部門にはコンセッショナリー(名前を出さない専門店)を導入した。

 夜逃げするためには、親会社のような豪華な本部はご法度だ。だから、小さな本部を実践し、その分、店舗への権限委譲を推進した。それが店舗のやる気を喚起する。

 小さな本部は、中長期計画さえ持たなかった。「小売業は短期の目標数値や現状把握の方が重要だ。中長期計画から数字が乖離したら、その修正の方が大変だ」という理由からだ。

 ユーストアは、画期的で革新的な新しい食品スーパーだった。だが、あまりにも変哲もない店舗に見え過ぎて、そのことに気づいていた者は業界内外を見回してもほぼおらず、長くノーマークだったのである。

 会社設立に当たっては、ユニー在籍時に担当していたユーマート事業(ローコスト&ディスカウント業態)を立ち上げた時に起草した行動指針「5つの誓い」を転用した。

  1. 公明正大であること
  2. 他人の仕事に積極的に口を出すこと
  3. チームプレーに徹すること
  4. 開放的雰囲気をつくり出すこと
  5. 無責任な仕事はしないこと

 というものだ。これは後に振り返り「できがよかった」と自賛している。

 同じように経営理念も掲げた。

  1. 厳しい規律のなかにも自由で楽しく働ける雰囲気の職場を作ろう
  2. その土地で一番良いと言われる店を作ろう(品質、品揃え、接客において)
  3. 自分の一生を託するに足る会社を作ろう

 とはいうものの、この時点でユーストアが抱えている問題は何も解決してしない。

 しかしながら、窮すれば通ず。

 ここから家田さんは本領を発揮する。

ユーストアのパート社員は、ユニー香港店(1987年開業)などをめぐった

3つのコストを極小化、ローコストモデルを確立

 まずは男性社員の獲得だ。家田さんは人事部長として、「このままユニーにいても花が開かず重荷になる」と会社に評価されていなかった男性社員が誰であるかを知っていた。本人のやる気、上司とのソリ、家族の問題…理由はそれぞれだ。

 その中で転籍させればやってくれそうな者を選び、「お前、ユニーにはおれんな。おっても先は知れとるな」とささやき次々と声を掛けスカウトしていった。

「上司は快諾。本人も次に行くところはないと自覚しているから2つ返事でOKする。そして新天地でもう一花さかせようと――よく働くんです」。

 1977年10月に第一号店の蟹江店(愛知県海部郡蟹江町)が開業する。

 その少し前には、女性社員の問題も解決している。

 レジや販売のパートを募集したところ、たまたま事務員志望の女性がいたのだ。

「渡りに船とばかりに、その方にパート事務員として入社してもらうことにした。日本の主婦は本当に優秀なんです。なのに賃金は時給だから勤務時間分のみ。この方は、経理を含むバックヤードの事務をほとんどこなしてくれた」。

 家田さんは、「これだな」と思い、溜飲を下げた。

 不動産費極小、人件費極小、商品原価極小というユーストアのローコストモデルができあがった瞬間だった。

 人材獲得に苦労させられた分、福利厚生には気を遣った。

 例えば、店には必ず社員食堂を設けた。もっともド田舎立地なので周囲に昼食をとる場所がない、という理由もあったが…。

 調理担当は従業員。提供する日替わりランチは、バブル期の1990年代初頭で1食200円。しかも、うまい。出入りの業者も昼食時間を狙ってユーストアの店舗を訪れ、食事を済ませてから次の訪問先に向かった。

 まさに千客万来。どの店舗もお客と訪問者で大いににぎわった。

 とくにパートタイマーに対しては、とてもやさしい会社だった。原則週休2日。勤続5年で香港3泊4日のこづかい付き旅行。勤続10年は伊勢志摩の高級ホテル1泊2日旅行に行ってもらった。家田さんは、役員ともども必ず同行し、パートタイマーとの交流を深めた。

 そもそも家田さんが蟹江店の開業に際して「5年勤めてくれるパートなんかいないはず」と高をくくって、パートタイマーを前に「勤続5年で香港旅行」という空手形を切ったことが発端だ。約束を守り、しっかりやり続けてきたこともあり、家田さんが「よく居つくなあ」と毒づくくらい高い定着率を維持した。

 一方、正社員には、入社した年次ごとに米国中部~西海岸の流通業視察研修を用意している。

「ハエ1匹100円」ルールが繁盛に繋がる

 売上、利益は順調だったので、社内の従業員に対して、きつい話をすることはそれほど多くなかったが、その分、とくに店舗や売場のクリンリネスについては厳しい態度で臨んだ。

 ただそんなときもユーモアあるやり方なのが家田さん流である。

 ユーストアには「ハエ1匹100円」というルールがあった。店内にハエが飛んでいるのを家田さんが見つけたら、罰金100円を家田さんに支払わなければならないというものだ。

 今の時代なら“パワハラ”そのものと言っていいが、当時は家田さんを「おやじさん」と慕う従業員が「負けてなるものか」とゲーム感覚でハエ退治をはじめとするクリンリネスに没頭した。それが、売場に活気をもたらし、繁盛につながり、好循環をもたらす。

 もうひとつ。ユーストアでは家田さんの社長在任中は、POSを導入せずに手打ちのレジを使っていた。導入しなかった理由は、「商売がみみっちくなる」から。その結果、何が売れているのかを一番知るのはパート社員のレジ担当者ということになり、彼女たちの持つ情報を仕入れにも生かした。

 家田さんのユーストアは快進撃を繰り返し、平成元年(1989年)、名古屋証券取引所第2部に上場する。

 1991年時点の店舗数は24店舗。売上高は737億円だから1店舗当たりの平均売上高は実に30億円超。経常利益は49億円、売上高経常利益率6.6%…。「大いなる中小企業」を目指したユーストアは、その通りの成長を見せた。

 「こんなにぼろい商売があるかや」と家田さんは、ほくそ笑み、超優良企業を創業した名経営者として業界内にその名を轟かせた。

 当時の家田さんは、マスコミから「ユーストアはなぜうまくいっていると思いますか?」と尋ねられ、「大体、親会社と反対をやっていればうまくいく」と笑いながら答えていたものだ。

 確かにその頃は、そんなことを言っても、まだ冗談のネタのひとつとして笑っていられた。

 しかし、親会社ユニーには恐ろしいほど暗く濃い影が忍び寄っていた。

 

【余録】

 家田さんは、この時代にも数々の名言を残しているので記しておきたい。
 ・POSデータ3日もすればただの紙
 ・パートさん3日もすればプロフェッショナル
 ・休みを増やして利益を上げる
 ・社員の定着率こそ企業のロイヤリティ
 ・経費予算はゼロが正しい
 ・人が余ると業績悪化し、少ないと向上する
 ・会社とは潰れるもの
 ・新しいモノを新しいうちに売ることが鮮度管理