第299回 渥美俊一が喝破「PBが流行を追いかけることがNBメーカーのカモになる」理由

樽谷 哲也 (ノンフィクションライター)
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

大胆な権限移譲ができていたなら

 前回までに記してきたように、渥美俊一と東京大学法学部の同窓で、大手商社で若くして実績をあげ、中内㓛に仕えることになって転身した打越祐(うちこしたすく)が詳細に語っていたのは、ダイエーが傘下に収めた首都圏の中堅スーパーマーケットの実例である。勘所となるのは、その場凌ぎを繰り返すことなく、止血処置を終えたら決算書の明朗な会社へと再生させる手腕である。

 ダイエーは、実の兄弟による長年の相剋(そうこく)を、ようやく過去のものとしていた。いっそのこと、関西をオーナーの中内㓛自身が統治し、関東にある店舗や子会社チェーンの運営については、おおむね打越に任せるというような大胆な権限移譲ができていたのなら、その後の展開は大きく変わる可能性を残していたのではないか。だが、打越祐も10年を区切りにダイエーを去った。渥美はこう語ったことがある。

 「打越を手放したことは、中内さんにとってもダイエーにとってもほんとうにもったいなかった。彼が辞めるよりも、もっと早い時期に、(打越をダイエーに引きとめるために)僕が介入すべきだったのではないかと思うことがあります」

 そう述懐した渥美に対し、どこまでが本心であったのか、図りかねるところはあった。年月を隔(へだ)てて、ようやく、おぼろに見えてくる風景というものもある。最晩年に近いといっていい時期に、毎月のように、あるいは月に2度、3度と長時間にわたって話を聞く機会を得ていた2000年代、渥美俊一自身にとっても総括できえぬ思いのようなものが幾多とあったことであろう。当時から15年、20年とたちつつあるいま、感得するところが少なくはない。

 たとえば、渥美と官立第一高等学校(旧制。現在の東京大学などの前身。通称は旧制一高)の級友で、大学を卒業後、大手証券会社で若くして業績をあげたあと、マルエツに転じた四方(しかた)昭の証言を思い浮かべる。四方もまた、学生時代を懐かしみながら渥美に学び、マルエツに10年勤めたあと、ついには日本リテイリングセンターのアドバイザーとして、会員企業の相談役に徹していった。

 四方からも、ダイエーが首都圏で傘下に収めたチェーン企業の優良店と不採算店、古く狭い店舗で荒れ果てたような売り場をどう見直していくか、意気消沈する従業員たちにいかに寄り添いながら、守旧派の労働組合とどう折り合いをつけていくか、苦心惨憺(さんたん)の末に改善に導き、決算書類上でも齟齬(そご)を来(きた)さぬ企業体に変えていったか、自らの実体験をもとに詳しく生なましい裏話を聞いた。

 そして、「ダイエーは、年商1兆円を達成して、次は2兆円突破だといいはじめたころには、もうマネジメントが崩れていて、内部は

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記事執筆者

樽谷 哲也 / ノンフィクションライター

1967年、東京都生まれ。千葉商科大学卒業。雑誌編集者を経て、98年からフリーランスに。渥美俊一とJRC、流通企業と経営者、周辺の人物への取材は10年以上に及ぶ。「人間 渥美俊一」を渾身の筆で描く。

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