北海道現象から20年。経済疲弊の地で、いまなお革新的なチェーンストアがどんどん生まれ、成長を続けています。その理由を追うとともに、新たな北海道発の流通の旗手たちに迫る連載、題して「新・北海道現象の深層」。第9回は、北海道市場の流通勢力図を一変させた、外資“イオン”の道内進出の軌跡を辿りながら、北海道流通に与えた甚大な影響について解説します。
北海道現象の本質を20年前に喝破していた岡田卓也名誉会長
ちょうど20年前、小売業の「北海道現象」が全国的な注目を集めていた1999年8月に北海道新聞社は「流通改革と北海道経済」と題したシンポジウムを札幌で開きました。その基調講演の講師としてお招きしたのが、イオンの岡田卓也名誉会長でした。
この講演で岡田氏は、アマゾン・ドット・コムの時価総額がシアーズ・ローバックを上回ったことを取り上げて後のeコマース隆盛を予言するなど、小売業が21世紀を生き抜くためには、既成概念の打破が必要であると強調しました。
とりわけ力を入れて語っていたのが、欧米と日本の小売業者の間の経営格差についてです。「欧米の強大な流通業と勝負するために残された期間はあと5年だと断言できる。その間に力を付けなければ、またたく間に日本の市場は席巻されてしまうだろう」と述べていたのを鮮明に覚えています。
岡田氏は講演後のパネル討論にも特別参加し、そこでも印象深い発言を残しています。「北海道現象の本質は業態の改革だ。ツルハは『薬屋』ではないし、ニトリも『家具屋』の呼び方ではくくれない。そもそも『何々屋』と呼ばれるような店は、売り手の都合でできた業態だ。北海道で成長している店は生活者の発想でできた新しい業態と言えるだろう」。そのように北海道の成長企業を高く評価する一方で、こう付け加えることを忘れませんでした。「そうは言っても、国際的に見れば全部零細企業ですが」
当時、日本の小売業界では「外資脅威論」が盛んに語られていました。99年は米国のコストコ・ホールセールが日本1号店を出店した年であり、翌年にはフランスのカルフールの進出を控えていました。そう遠くない将来、世界最大の小売業者、米国のウォルマートも日本に乗り込んできて、力のない国内企業は淘汰されてしまうのではないか…。多くの人がそう考えていた。
国内企業の中で、とりわけ危機感を強めていたのがイオンでした。外資との本格競争を視野に01年、世界小売業ランキング10位内を目指す「グローバル10」構想を掲げ、規模拡大に邁進していくことになります。
2000年頃まで“無名”だったイオン
ところで、岡田氏が札幌で「外資の脅威」を語っていた99年当時、「イオン」「ジャスコ」の名前を知っている北海道民はほとんどいなかった-と言ったら驚く方も多いのではないでしょうか。
イオンが北海道に進出したのは、食品スーパー子会社の北海道ジャスコ(現マックスバリュ北海道)が小樽市内に「マックスバリュ」を出した95年。70年代に北海道進出を果たしたダイエー、イトーヨーカ堂、西友に大きく後れをとりました。しかも、北海道ジャスコはその後の4年間に食品スーパー7店舗(うち札幌は1店舗)を出店するにとどまり、当時の社長が「知名度不足」を嘆くような存在でしかなかったのです。
北海道民が「イオン」「ジャスコ」の名を認識するのは、イオン本体が郊外型ショッピングモールの道内1号店を釧路市内に出店した2000年9月以降のことです。
イオンの大型店出店はそれ以前にも何度か取りざたされてはきたものの、実現のタイミングを逸してきました。その結果、企業として成長途上にあった70年代に北海道に店を出した他の本州大手とは異なり、イオンは巨大流通資本になってから海を越えて上陸する形になったのです。そして出遅れを取り戻すべく、イオンは一気に出店攻勢をかけた。05年までの5年間に道内で建設したショッピングモールは実に9カ所にも及びました。
外資の本格攻勢に備えて「グローバル10」の目標を掲げたイオンにすれば、空白地帯の北海道内の店舗網構築を何としても急ぐ必要があった。皮肉なのは、そのように体力に物を言わせて巨艦店を次々建設していくイオン自身が、当時の道民の目には「外資」と同質の存在に映っていたということです。
このイオンの登場の仕方は、北海道の小売業経営者を大いに刺激することになりました。北海道拓殖銀行破綻後の不況という「厳しい予選」を勝ち残り、「北海道現象」を巻き起こした自信を背景に、イオンという「外資」の大攻勢への対決姿勢を鮮明にしたのです。
“外資”イオンの存在が、アークスを生み出した
02年、札幌のラルズと帯広の福原の経営統合による持ち株会社・アークスの設立は、そうした「道民心理」を反映したものでした。
この経営統合の斬新さは、業績、財務ともに健全な上場スーパー同士が手を組んだ点にあった。それまで地方スーパー同士の統合は、経営難に陥った企業を救済するケースにほぼ限られていました。同族企業が多い地方スーパーの経営者は、よほど経営が傾かない限り、「一国一城の主」でいたいと考えるのが普通であり、経営戦略的に統合を選択することはほとんどなかったのです。
この「常識」を覆し、ラルズと福原という「勝ち組」同士の手を握らせたのが、横山清ラルズ社長(当時)が訴えた「地元企業が結束し、外敵から北海道の小売り文化を守ろう」という「大義」でした。
アークス設立直後の03年5月、横山氏は日本スーパーマーケット協会のシンポジウムでこう述べています。「イオングループはありがたい存在だ。イオン対策をきっちりとやり遂げることが顧客の満足度を高め、同時に外資の本格攻勢という未来に向けての予行演習にもなる」。横山氏もまたイオンとの戦いの延長線上に外資の進出を見据えていたのです。
「地元企業の大同団結」という横山氏が掲げた大義に触発され、アークスにはその後も、旭川のふじ、札幌の札幌東急ストアなど、地元の優良スーパーが続々と結集し、全国有数規模の食品スーパーに発展していくことになります。
イオン躍進のきっかけは、ポスフールのグループ入り
一方、北海道市場においてイオンが真の意味で存在感を発揮するようになるのは、03年にポスフール(旧マイカル北海道)がイオングループ入りしてからのことです。
マイカル北海道もラルズとともに「北海道現象」5社の一つに数えられ、当初は「反イオン」の急先鋒でした。
拓銀破綻直後には、釧路、千歳、帯広、江別、北見の五つの「サティ」が年商100億円超えを達成し、総合スーパーとして群を抜く競争力を誇っていました。当時社長だった大川祐一氏は地方の衣料品店主から2度の合併を経てマイカル傘下に入った経歴の持ち主とあって、他の本州系総合スーパーとは異なり、地域特性に合ったきめ細かな店づくりを得意としていたのです。
マイカル本体が96年に各地域子会社の商品部を親会社に統合すると決めた際には「地域密着の仕入れを行うには自前の商品部が欠かせない」と主張し、ただ1人拒否を貫いたという逸話も残っています。こうした大川氏のリーダーシップによって、01年にマイカルが経営破綻した際にも、マイカル北海道は連鎖倒産を免れることができた。
「親会社の拡大路線に疑問を持ち、“親離れ”を進めてきたからこそ生き残ることができた。もう大手の傘下で苦労するのはこりごりだ」-。大川氏は、マイカルの再建スポンサーとなったイオンの傘下に入ることを強く拒みました。社名を「ポスフール」に変えて「自主独立」の立場を鮮明にし、02年にはアークスとの経営統合へと動いたのです。
しかし、アークスとポスフールによる「反イオン連合」結成は、言わば「資本の論理」によって頓挫してしまいます。マイカルのスポンサーであるイオンは自動的にポスフールの筆頭株主になるため、アークスと対等合併した場合の新会社にもイオンの出資が10%以上残り「われわれまでイオンの影響下に入ってしまう」(横山氏)。イオンがポスフール株を手放す気がない以上、「自主独立」は不可能であることは明らかでした。
結局、「いつまでも筆頭株主と冷戦を続けるわけにはいかない」という大川氏の方針転換によってポスフールは03年11月にイオングループ入りしました。これによってイオンは、ポスフールが持つ1200億円の道内売上高と大川氏が築いた地域密着の商品調達ルートを手に入れることに成功します。「外資」のイメージが強かったイオンが北海道の消費者の信頼を獲得する転機になりました。
「外敵」イオンの存在が3極構造を導いた
ポスフールは07年、道内のイオン直営モールの移管を受けて「イオン北海道」に社名変更し、当初の思惑とは反対に道内イオングループの中核企業として今日に至っています。
20年前に岡田氏が述べた「外資と勝負するための猶予期間はあと5年」との予言は、国内の小売業者にとっては良い意味で的中しなかったと言えるでしょう。
2000年にイオンの本拠地・幕張に乗り込んだカルフールは、逆に5年で撤退し、残された店舗はイオンのものになった。02年に西友への資本参加という形で日本に進出したウォルマートも昨年、撤退報道が出るなど「市場を席巻する」にはほど遠い状況です。
それでも岡田氏の危機意識が、イオンを「グローバル10」に駆り立て、それに刺激された道内有力スーパーによるアークスグループ結成というダイナミックな動きを引き出すことになった。「外敵」としてのイオンの登場が北海道のスーパーの経営体質を一段と強靱化し、今日の3極寡占化を導く契機となったのは間違いありません。