マニュアルのない災害支援 ユニクロが東日本大震災の被災者支援から学んだこと
自分たちの手で、必要な人に直接届ける
「その後、仙台市の所有する倉庫をお借りできたのですが、そこは備蓄用倉庫で、大量の乾パンやオムツなどが山のように積まれているものの、保管しているだけで出荷する人がいない状態でした。せっかくそこまで運び込んだユニクロの服も、倉庫に眠ったままになるのは目に見えていました。そこで、倉庫までではなく、避難所まで届けるという方針に切り替えて、倉庫に積んだままになっていた生活物資も、服と一緒に届けることにしました」(シェルバ氏)
震災発生からわずか1週間後、全社員に向けて、被災地へユニクロの服を届けるボランティアを募る呼びかけが始まった。そして翌週末から、ボランティアに参加する社員20~30人が現地に衣料物資を届けに行き始める。その中には、コンベンションで東京に出張している間に地震に遭い、そのまま東京にとどまったニューヨークからの出張者もいた。
ボランティアに参加した一人で、当時MD(マーチャンダイジング)部でメンズのボトムを担当していた岡田恵治氏(以下、岡田氏)は、当時を振り返る。
「まだ東北新幹線も復旧していませんから、毎週木曜日の夜、仕事を終えた後に六本木からレンタカーを借りて、皆で分乗して東北に向かうんです。その晩は被災の少なかった山形のビジネスホテルに宿泊して、翌朝早くから福島や宮城の倉庫に行き、手配してあったトラックにユニクロの服と支援物資を積めるだけ積んで被災地へ向かい、避難所を回って物資を配りました」(岡田氏)
「現地に行ってわかったのは、配布先リストに載っている避難所は比較的大きなところだけだったということ。車で移動していると、小さいお寺に避難している方や、事情があって倒壊しかけた自宅にとどまってる方もいらっしゃって、そういう方々にはまったく支援が届いていなかったのです。避難所にいる方から、『山の上にも避難している人がいるから、行ってあげてほしい』と言われることもあり、時間が許す限り、車を走らせました。今回行かれなかった、あの先にも支援を待っている方がいらっしゃるのではないかと思うと、また翌週も行かずにはいられませんでした」(岡田氏)
岡田氏は、それまでMD部の業務に忙殺されていて、会社の社会貢献活動には関心がなかったという。しかし、一度現地に行ってからは、何回も被災地を訪れるようになった。その体験がきっかけとなり、ついには自らサステナビリティ部への異動希望を出した。現在はサステナビリティ部でグローバル環境マネジメントチームのリーダーとなっている。
緊急支援から復興応援、自立支援へ
毎週末の衣料配布ボランティアは、本部の社員が代わる代わる参加して半年間続き、1年間で120万点の衣料を配布した。
そして1年後の2012年3月より、ユニクロの被災地支援は寄付中心の「緊急支援」からフェーズを変え、自立支援、雇用創出、コミュニティ再建などを目的にした「ユニクロ復興応援プロジェクト」を立ち上げる。プロジェクトの目玉は、3月11日に、被災地にユニクロの仮設店舗をオープンすることだ。
実は社内では、服の無償配布をもっと続けた方がいいのではないかという意見も残っていた。しかし、1年間被災地に通って、被災した現地の人々の反応が変わってきていることも肌で感じていた。
出店開発部のエキスパンションマネージャーで、当時東北エリアを担当していた伊藤晃氏は、その変化をこう語る。
「衣料配布を始めた頃は、皆さん、もらえるものは何でもありがたい、と言ってくださっていました。でも、だんだんと、自分の好みのものを着たいとか、自分で選びたい、という声が聞かれるようになってきました。それは決してわがままではなくて、服を着る喜びとは本来そういうものだと思うんです。被災された方が、少しずつ、本来の姿を取り戻りつつあるように感じました。それであれば、我々の支援の在り方も、より通常モードに近づけていくことが必要なのではないかと考えるようになっていったのです」(伊藤氏)
震災のあったとき、伊藤氏は出張先の仙台で商談中だった。近くの中学校の体育館に避難して一晩を明かし、翌朝レンタカーを借りて、封鎖された道路を避けながら何時間もかけて山形空港までたどり着いた。山形空港でもう一晩過ごし、東京に帰ってきたのは2日後の日曜日だった。翌週末から被災地に服を届けるボランティアが始まり、伊藤氏もすぐに参加した。
「僕は一晩しかいなかったのですが、雪の積もった中、寒い体育館で被災された方が身を寄せ合い、わずかな食料や水を分け合って耐えていたんです。その姿を思うと、居ても立ってもいられない気持ちでした」(伊藤氏)
そして1年後の2012年2月7日、ユニクロ本部で毎週行われていた「復興支援会議」で、3月11日に被災地に仮設店舗をオープンさせることが決定する。お客から要望があったことも大きいが、現地で雇用を生み出すことも目的だった。わずか一か月で立地選定、許認可、施工……伊藤氏は、どう考えても不可能だと思ったという。
「でも、何もなくなった土地にユニクロの店舗を作ります、どうにか3月11日に間に合わせたいので協力してください、とお願いして回ると、地元の方も、行政も、施工会社さんも、皆さん知恵を絞って、協力してくださったのです」(伊藤氏)
その結果、2012年3月11日には、気仙沼と釜石に、ユニクロの仮設店舗2軒が同時オープンした。押し寄せたお客は、口々に『お店を出してくれてありがとう』と店舗のスタッフに声をかけていった。
東日本大震災の発生当時、ユニクロには災害対応のマニュアルがなく、とにかく目の前のことに対して、できる限りのスピードで対処した。そこには企業のフィロソフィーと、リテール特有の反射神経が働いたといってもいい。一方、被災地近隣のショッピングモールは、2500人もの被災者を受け入れていた。当時、伊藤氏はそれを見て、自分たちができることはまだまだある、と思ったという。
あれから12年経ち、2023年4月にオープンした「ユニクロ前橋南インター店」はサステナビリティ設計の大型店舗で、災害時に地域住民を受け入れる備えもできた。災害支援に対して、12年前はできなかったことも、こうしてナレッジを蓄積し進化させている。
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