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売場と棚割を瞬間記憶!小売店舗の調査分析に捧げた鬼才 追悼、矢野清嗣さん

矢野清嗣さんとの出会い

故矢野清嗣さん(撮影:サテライトスコープ森本守人)

「商品アナリスト」という日本初の肩書を名乗った矢野清嗣さんとの付き合いは今年で32年目になる。正確な数字は覚えていないが、この間、200回以上は店舗を一緒に回ったはずだ。

 矢野さんは、私が入社する以前から、ダイヤモンド・フリードマン社(現:ダイヤモンド・リテイルメディア)でライターとして健筆をふるっていた。初めてお会いしたのは、1992年の9月頃で千葉県内の店舗調査でご一緒させていただいた。

 10時間ほど手分けして売場を調べた後、会食という名の飲み会に突入。入社したばかりの私は、ライターと編集者の関係がどういうものなのか知る由もなく、初見の矢野さんに結構な額を当たり前のように払わせた。それが始まりだった。

 その後、矢野さんとは、運命共同体または同志として数々の取材をこなしてきた。

 矢野さんは、ずば抜けた才能の持ち主で、売場の棚割りやレイアウトを画像として覚えてしまう。もちろん、商品の容量や価格はメモしていくのだが、そのスピードも半端ないものだった。この分野においては、「矢野さんの前に矢野さんなし、矢野さんの後に矢野さんなし」と言っていいだろう。

 それだけの才能を同業他社が放っておくはずもなく、当社以外からの執筆オファーを数多く受けていた。しかしながら、義理を優先させて全て断っていたという。

ダイエー取材がもたらした成果

 そんな天才肌と協業ができたおかげで、ヒット作をたくさん生み出すことができた。『チェーンストアエイジ』(現ダイヤモンド・チェーンストア)誌では「ダイエーハイパーマートの大いなる挫折」(19961115日号)というタイトルで特集をした。厚いベールに包まれ、店舗数が増えていくものの、その実態は外部には漏れてこなかったダイエーの次期戦略業態、ハイパーマートの売場を丁寧に回って取材を敢行、16ページの大特集に仕上げた。

 雑誌が発行されると、当時の編集長宛にダイエーの広報室が飛んできた。批判と提案を交えた企画だったので、ドキドキしながら会議室のドアを眺めていたのを覚えている。結局、フィールドワークは認められ、ダイエーの取材協力をまったく受けなかったにもかかわらず記事訂正などのクレームは一切つかなかった。

 それどころか、その8カ月後には、メディアへの露出を控えていた中内功CEO(最高経営責任者)が小誌に登場してくれることになり、「奪還!王者ダイエーのリターンマッチ」(199771日号)なる特集につながった。

 さらにこの話には、オマケがある。中内さんがこの特集部分を800部ほどコピーし幹部社員に配布したのだという。中内さんの懐の深さに驚くとともに、「それなら雑誌を買ってほしかった」と邪な考えが浮かんだものだ(編集部注 雑誌の無断複製・配布は著作権法で固く禁じられています)。それだけ衝撃的でかつ取材先にも貢献できる記事だったわけだが、その裏には矢野さんの活躍があった。

 もちろん、雑誌が発売された後には祝杯をあげた。

 一方で、売場でのフィールドワークという「怪しい」動き方は店舗の方々の目に留まるものだ。実際、私も店内で注意を受けたことがあるし、倒産間近のヤオハンジャパンでは、閉店を決めた店舗の外観写真を撮影していたところ、店内から従業員の方が出てきて、「何をしているんだ!」と怒られた。

 でも、40年近くフィールドワークをこなしてきた矢野さんが捕まったという話は聞いたことがない。それもそのはずで、矢野さんはいつも一般的なおじさんのような装いで、売場に自然に溶け込んでいた。

ホームセンター企画での新たな挑戦

 矢野さんとの関係は私の『ダイヤモンド・ホームセンター』誌への異動を契機に新しいステージに入っていく。

 食品の専門家であった矢野さんは、同誌を盛り上げるためにホームセンターが扱う非食品を勉強してくれた。当時まったく取材を受けなかった“世界一”のホームセンター企業ジョイフル本田と“日本一”のホームセンター企業カインズを対峙させた企画「ジョイフル本田VS.カインズ ホームセンター徹底比較2002」(20024月号)として結実させたことも印象深い。

 ホームセンター企業の2トップは、ともに踏み込んだ内容を高く評価してくださり、それ以降、2社ともに取材ができるようになっていった。多くのヒットを重ねる中で、矢野さんとはよくお酒を飲みにいき、ポン友のいる韓国にも一緒に行った。何度も聞いたのは、生い立ちから今に至るまでの波乱万丈の“武勇伝”だ。

 けれども、名門千葉県立千葉高校を卒業して、スウェーデンに渡航し、日本の小売業に就職して専従組合員を任され、マレーシアで食品スーパーの立ち上げに関わり、帰国して「フーテン」をしているという流れ以外の細かな部分は何度聞いても頭に入ってこなかった。 趣味の小唄の発表会も何度か聞きに行ったが、こちらもよく覚えていないし、詳しいプロフィールをいまだに知らない。

 その後、私が『チェーンストアエイジ』誌に編集長として戻ると、取材対象が得手とする食品に戻ったこともあったのだろう――それまで以上に奮闘してくれた。

 オーケーがメキメキと成長していた時期には「全46店舗を取材して」ととんでもないお願いをしたものだが、嫌な顔ひとつすることもなく、面白がって企画に乗ってくれた。実際に46店舗を回り、「オーケー 好調の裏側を徹底分析」(200851日号)としてまとめてくれた。

矢野清嗣さんの人柄と功績 、そして最後の日々

 一見、細かなことは気にしないようなタイプに見えたけれども、実は心中は繊細で自分のかかわった記事がどう評価されているのかには人一倍敏感だったしこだわっていた。それが秀作を生み続ける起爆剤だったのだと思う。

 矢野さんの秀でた才能と人懐っこいキャラは、会社の後輩達にも喜んで受け入れられた。孫ほど年齢が離れた若い編集記者を相手にその後もロピアやコスモス薬品といった取材のハードルが高い企業の店内調査や執筆に励んでいた。

 ちょうど2年前の今頃、「病巣が見つかった。明日から入院、1週間後に手術だ」という日に一緒に飲んだ。「しっかり治療して早く戻ってきてください」と声をかけたところ、3カ月も経たないうちに帰ってきてくれた。

 そこから110カ月、矢野さんは当社でずっと働いてくれた。だが、今年8月に余命3カ月と宣告。9月下旬に気の置けない人たち50人ほどを集めて食事会を開催。10月下旬には一緒に店舗視察に行ったのだが、大船駅で手を振ったのが最後となってしまった。享年78歳。

 矢野さん、ダイヤモンド・リテイルメディアは矢野さんの存在なしでは今のような会社にはなれませんでした。それほど矢野さんは当社にとっての功労者でした。

 勲章や大金を差し上げることはついぞできませんでしたが、矢野さんのことをずっと忘れません。ありがとう。合掌。