国内アパレルの悲劇 差別化できないのは、「ブランド」と「分類」を混同しているから
ブランドの本質を見誤った悲劇
この混同により、誤ったビジネス戦略が生まれ、多くの悲劇がいまも起こっている。
「ブランド」とは、裏側に非常に高い付加価値が存在し、その付加価値を守り抜くための品質証明である。逆に言えば、物理的に同じような「モノ」を名前だけ変え、桁違いの値段で販売するようなビジネスではない。
だからブランド品を買うことは、なんら恥ずかしいことでもないし、良い商品の価値が理解できるということは、むしろ、裏にある職人の技能や伝統をリスペクトするということ(価値を認める)でもある。つまり、「良いモノが分かる」ことは、教養という観点からもとても良いことなのである。
しかし、こうした審美眼は、一朝一夕では鍛えられない。消費者が成熟し、価値を理解しながらお金を使うべきところに使い、使わないところには使わない。これを「消費の知的購買化」と呼ぶが、こうした知的購買が普段の生活になじむためには時間がかかる(当然お金もかかる)。少なくとも、欧州で発展した貴族文化についての理解を体の隅々になじませるにはなおさらだし、私を含めて誰もができることでもない。
アジアの方達が日本に押し寄せ、それを「爆買い」などと評しているが、我々だってバブル時代に同じことを世界でやってきた。例えば日本人は米国のティファニーに大挙で押し寄せ、わしづかみで「オープンハート」を買っていったものだ。人間の本質など変わらないのである。
このように、一般的には消費の知的購買化は時間がかかる。だが、ある理由により、その状況も一変しようとしている。スマホの普及とテクノロジーの進化である。
一昔前のスーパーコンピューター並の処理能力を持つデバイスを誰もが持つようになった。企業側も類似商品の価格比較や、プロや実際の購買者によるパフォーマンス評価をWEBに掲載し、AI (人工知能)などによって過去の購買履歴から、その顧客が欲しいものをリコメンドする世の中が到来したのだ。こうなると、急速に消費者の知的購買は加速する。
気づけば、「縦の線」(ブランド)と「横の線」(分類名)の差をしっかり理解してこなかった企業、とりわけ、ブランドによる松竹梅を、価値の松竹梅に連携させることをしてこなかった企業は、一発でディスラプト(産業破壊)されるようになってしまったのだ。
これが、私のいう「ブランドの本質を見誤った悲劇」である。