売場と棚割を瞬間記憶!小売店舗の調査分析に捧げた鬼才 追悼、矢野清嗣さん
ホームセンター企画での新たな挑戦
矢野さんとの関係は私の『ダイヤモンド・ホームセンター』誌への異動を契機に新しいステージに入っていく。
食品の専門家であった矢野さんは、同誌を盛り上げるためにホームセンターが扱う非食品を勉強してくれた。当時まったく取材を受けなかった“世界一”のホームセンター企業ジョイフル本田と“日本一”のホームセンター企業カインズを対峙させた企画「ジョイフル本田VS.カインズ ホームセンター徹底比較2002」(2002年4月号)として結実させたことも印象深い。
ホームセンター企業の2トップは、ともに踏み込んだ内容を高く評価してくださり、それ以降、2社ともに取材ができるようになっていった。多くのヒットを重ねる中で、矢野さんとはよくお酒を飲みにいき、ポン友のいる韓国にも一緒に行った。何度も聞いたのは、生い立ちから今に至るまでの波乱万丈の“武勇伝”だ。
けれども、名門千葉県立千葉高校を卒業して、スウェーデンに渡航し、日本の小売業に就職して専従組合員を任され、マレーシアで食品スーパーの立ち上げに関わり、帰国して「フーテン」をしているという流れ以外の細かな部分は何度聞いても頭に入ってこなかった。 趣味の小唄の発表会も何度か聞きに行ったが、こちらもよく覚えていないし、詳しいプロフィールをいまだに知らない。
その後、私が『チェーンストアエイジ』誌に編集長として戻ると、取材対象が得手とする食品に戻ったこともあったのだろう――それまで以上に奮闘してくれた。
オーケーがメキメキと成長していた時期には「全46店舗を取材して」ととんでもないお願いをしたものだが、嫌な顔ひとつすることもなく、面白がって企画に乗ってくれた。実際に46店舗を回り、「オーケー 好調の裏側を徹底分析」(2008年5月1日号)としてまとめてくれた。
矢野清嗣さんの人柄と功績 、そして最後の日々
一見、細かなことは気にしないようなタイプに見えたけれども、実は心中は繊細で自分のかかわった記事がどう評価されているのかには人一倍敏感だったしこだわっていた。それが秀作を生み続ける起爆剤だったのだと思う。
矢野さんの秀でた才能と人懐っこいキャラは、会社の後輩達にも喜んで受け入れられた。孫ほど年齢が離れた若い編集記者を相手にその後もロピアやコスモス薬品といった取材のハードルが高い企業の店内調査や執筆に励んでいた。
ちょうど2年前の今頃、「病巣が見つかった。明日から入院、1週間後に手術だ」という日に一緒に飲んだ。「しっかり治療して早く戻ってきてください」と声をかけたところ、3カ月も経たないうちに帰ってきてくれた。
そこから1年10カ月、矢野さんは当社でずっと働いてくれた。だが、今年8月に余命3カ月と宣告。9月下旬に気の置けない人たち50人ほどを集めて食事会を開催。10月下旬には一緒に店舗視察に行ったのだが、大船駅で手を振ったのが最後となってしまった。享年78歳。
矢野さん、ダイヤモンド・リテイルメディアは矢野さんの存在なしでは今のような会社にはなれませんでした。それほど矢野さんは当社にとっての功労者でした。
勲章や大金を差し上げることはついぞできませんでしたが、矢野さんのことをずっと忘れません。ありがとう。合掌。