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ユニクロの難民雇用 ミャンマーから逃れて日本で描く未来

6月20日は世界難民の日であった。現在、世界の人口は約80億人。そのうち、約1億1千万人以上が紛争や迫害によって故郷を追われ、戦火や抑圧から逃れる生活を余儀なくされている。ユニクロは2001年から難民キャンプへの衣類寄付を開始し、2006年からはファーストリテイリンググループとして本格的に難民支援に取り組み始めた。以来、これまで難民に衣類を寄贈してきた国や地域は80、寄贈した衣類の点数は5000万点以上、そして雇用している難民の数は124名にのぼる(2022年8月末)。ミャンマーから逃れてきた難民で、現在ユニクロ店舗で働くパイ・ミン・タン氏に、日本で描く未来について聞いた。

離れ離れに生きる家族

 ミン氏は、1990年代にミャンマーに生まれた。ミャンマーでは1948年の独立以来、70年以上内戦が続き、いまだに銃火が止むことがなく、国内が完全に統治されていない状態である。

 当時、ミン氏の父親はアウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)の学生リーダーとして活動しており、国内にいては命の危険がある状態だった。そこで、苦肉の策で、名前を変えて、ミャンマーを出た。当時アメリカに行く途中で立ち寄ったのが日本だった。日本に滞在できる期限が迫ってきても、ミャンマーには帰ることはできない。そんなときに優秀な弁護士との出会いにより難民ビザを取得することができ、ようやく日本で難民認定された。

 一方、ミン氏自身は、7歳の時に母親と一緒にミャンマーを出て、シンガポールで暮らしていた。ようやく父親と連絡を取り合えるようになったのは、シンガポールの高校を卒業後、ミャンマーに戻って大学に入学してからだ。

 父親が永住ビザを取得できたため、ミン氏も定住ビザが取得できるので(※)、日本に来ないかと言われた。ミャンマーから書類を揃えて日本に送ると、2カ月でビザが降りて、父親が飛行機のチケットを送ってきてくれた。18歳で日本に来て、そこで生まれて初めて父親と会った。
※永住ビザは、国籍を変えないままで日本に滞在し続けることができるビザ。在留活動、在留期間ともに制限がなく、在留管理が大きく緩和される。定住ビザは、永住者の扶養を受ける未成年で未婚の実子が取ることができ、就労に関する制限がなくなるため、日本人と同様にどんな仕事にも就くことができる。

ユニクロ店舗で働くパイ・ミン・タン氏

日本で初めて会った父親

 「父とは僕が生まれて半年で離れ離れになりました。大人になってから初めて会ったので、当初は戸惑いもありました。なぜ18年も家族と離れていたのか、とか、父に対して複雑な気持ちもありました。でも子供の頃から色々な人から父がどんな人か聞いていて、きっと面白い人なんだろうと思っていたら、初めて会った父は本当に想像通り、とても面白い人だったのです」

 父親との失われた18年間を日本で取り戻そうとしていたが、その父親は2021年に亡くなった。死因は新型コロナウィルス性肺炎だ。当時コロナの感染拡大がピークの時期で、なかなか入院できる病院も見つからず、ようやく入院できたその週末に亡くなった。
大変な思いをして国を出て、家族と離れ離れになってまで、日本で生き抜いてきた父親。あまりにもあっけない最期だった。

 ミン氏の母親と兄は今もミャンマーに住んでいる。

 「ミャンマーが安全かどうかというと、まったく安全ではないですね。常に何が起こるかわからない状態で生活しています。毎日、身近なところで軍と国民が戦っていて、銃撃や爆撃があり、誰かが撃たれています。日本に軍隊はないけれど、もし日本の軍隊と国民が戦ったらどういうことになるか、想像してもらえばわかると思います。そこに母や兄がいるのですから、毎日心配はしています。でも、何もできない。もちろん、日本に来て住んでもらいたいです。父が永住ビザを取れたから僕の定住ビザが取れたように、僕が母や兄にビザを与えられたらいいのですが、今の制度では難しいですね」

パイ・ミン・タン氏

日本に来てからの一年間

 ミン氏の日本語は驚くほど流暢だが、日本語は日本に来てから勉強したのだという。日本に来て、まずRHQ(Refugee Assistance Headquarter難民事業本部)(※)の定住支援プログラムで、一年間日本語を勉強した。
※難民事業本部(Refugee Assistance Headquarters)は、政府から委託を受けて、難民等の支援を行う団体。難民とその家族の日本での定住を促進するための支援を行う。

 このプログラムは、難民及びその家族が日本社会で自立した生活を営むため、①日常生活に必要な日本語力を身につける日本語教育、②日本の社会制度や生活習慣、文化、保健衛 生等を学ぶ生活ガイダンス、③就職先や職場適応訓練先のあっせんを行う、というものだ。

 「ミャンマーで大学に入学していたので、当初は日本でも大学へ進もうと思っていたのですが、やはり早く経済力をつけて自立したいと考えるようになりました。それで、RHQの紹介で、ユニクロにインターンシップで入りました。そして、そのままユニクロで仕事を続けて準社員になり、3年前に正社員になりました」

ユニクロ店舗で働くパイ・ミン・タン氏

ユニクロでの仕事を通して

 ユニクロで働き始めて7年になるミン氏が、難民どうしの懇親会で皆に話す機会があった。

 「日本に来たばかり、ユニクロで働き始めたばかりの人を見ていると、昔の自分を思い出します。皆すごく不安で、萎縮しているのがわかりました。でも皆、当時の僕よりも日本語を話すことができている。とにかくできるとかできないとか考える必要はなくて、やりたいと思ったことは何でも挑戦してください、と言いました」

 日本語に自信がなく、他のスタッフとあまり話さない、本当はやりたいことがあっても言えない、という人が多いのだという。

 「ユニクロは、店長も、スタッフも、お客様も、頑張っている人には皆全力でサポートしてくれる、そういう環境です。それを信じて、やってみて、もし失敗してもまた挑戦すればいいと思う。怖いからと何もやらずに2、3年経ってしまったら、時間をロスしてしまいます。なので、とにかくやってみてください、と。僕はいつも、できないことなんてないと思っているんです」

 初めて来た日本で、初めて父親と会い、初めて日本語を覚えて、そして初めて日本の企業で働き始めた。大変だったが、無我夢中で、常にチャレンジがあった。入社して1年経たないうちに、ユニクロの本部で行われている月度朝礼に出席して、何千人という社員の前でスピーチし、柳井正社長とも面会した。

 ミン氏は、自分は周りの変化に合わせて一緒に変化するタイプだと言う。変化のスピードの速い環境にいると、自分もものすごいスピードで進化し、自分が以前とは全く別の人間になっているように感じているそうだ。

日本の高校で出張授業

 ユニクロでは、2013年から、従業員を小、中、高校に講師として派遣して授業をする、「“届けよう、服のチカラ”プロジェクト」というプログラムがある。子どもたちに教えるテーマは、「難民問題」だ。難民に服を届ける活動を通じて、服が持つチカラについて考える授業を従業員自らが出張授業として行い、その後子どもたちが主体となり、校内や地域で着なくなった、特に難民に必要とされている子ども服を回収。回収した服は、難民を含む服を必要とする人々に届けられる、というプログラムだ。今年でちょうど10年目にあたるこの取り組みは、年々活動を広げ、2022年には1年間で実に745の学校、8万8千人の生徒を対象に授業をした、集められた子ども服をUNHCRに届けてきた。

 ミン氏も2年前に講師として、都内の高校に出張した。

 「中学生や高校生に、僕自身も難民で、ミャンマーでは今こういうことが起きています、という話をしました。教えてわかったのは、日本の子どもたちが、あまりにも世界のことを知らないということ。日本は素晴らしい国だと思いますし、僕は時間が戻ったとしてもまた日本に来たいと思っています。けれど、世界の中で日本では子どもだけではなくて大人も、すごく平和というか、守られてすぎているように感じます。もっと世界で起きていることや社会がどうなっているのか、知っていてもいいんじゃないかと思いますし、そのために、もっといろんな人に会ってみてほしいと思いました」

 ミン氏の話に刺激を受けたのだろう、翌週その高校から連絡があり、今度は生徒たちがミン氏の働くユニクロの店舗にやって来て、ミン氏の話を聞く会が催されたという。

ユニクロ社員による出張授業の様子

自由と選択肢のある未来

 今後、ミン氏はどんなことをやっていきたいと考えているのだろうか。

 「父がコロナであっけなく亡くなってしまってから、人の命は思っているより短いと思うようになりました。何がやりたいか、と言われたら僕は何でも全部やりたい。ですから、とにかく自由でいて、自分の選択肢を増やしたいと思っています。今後、たとえば日本に帰化することも考えられるでしょうし、海外に留学してもいい。僕は自由なのですから。ミャンマーの母は、日本に来たいけど来られない。それが、自由がない状態です」

パイ・ミン・タン氏

 「いまユニクロでは、店舗のオペレーションやコミュニケーション、いろんなことを学んでいます。これはユニクロを辞めたとしても、どこで何をやっても役に立つことばかりです。ただ、今僕はユニクロという世界一を目指している大きな船に乗っています。今は、他の船に行くよりも、そこから自分の船を出したいと思っています。自由でどこに行ってもいい。自分の船を出して楽しく過ごせたらいいなと思います」

 「難民」という名の人はいない。その一人ひとりに、それぞれの人生がある。

 難民と呼ばれる人と会って話したのは初めてだったが、前向きで、貪欲で、好奇心旺盛なミン氏は、ただただ可能性に満ちあふれた若者であり、まさに人的資本であると思った。柳井正社長の言う「難民問題は社会の損失」という言葉を実感した。