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瀬戸内オリーブ基金への支援 #2 建築家・安藤忠雄氏と柳井正社長との22年間の交流

1990年代当時、日本最大規模といわれた有害産業廃棄物の不法投棄事件「豊島(てしま)事件」をきっかけに、建築家の安藤忠雄氏と、事件の弁護団長だった中坊公平氏の呼びかけによって設立された瀬戸内オリーブ基金。2001年に始まったこの瀬戸内オリーブ基金への支援が、ユニクロのサステナビリティ活動の起点となった。世界で最も尊敬される建築家の一人である安藤忠雄氏と、ユニクロ会長兼社長の柳井正氏との22年間に渡る交流について、安藤氏に取材した。

安藤忠雄氏と社会問題

建築家・安藤忠雄氏(写真提供:安藤忠雄建築研究所)

 元プロボクサーで、独学で建築を学んだ、という異色の経歴で知られる建築家・安藤忠雄氏。安藤氏が稀代の建築家と呼ばれ、世界中から尊敬を集めている理由の一つは、建築という枠組みを超えた、社会活動への旺盛な取り組みにある。

──安藤先生は様々な社会貢献活動や環境保護活動をされていますが、そのような関心を持たれるようになった背景や、影響を受けたことはあるのでしょうか?

 「建築家として仕事を始めたかなり早い段階から、社会や環境の問題には強い関心を持っていました。よく、『建築家なのになぜ木を植えるのですか』と問われるのですが、私の中で『建築をつくること』と『森をつくること』は、場所に働きかけ、新しい価値をもたらすという点において、同義の仕事です」

 「私がこれまで継続して行ってきた『ひょうごグリーンネットワーク』『瀬戸内オリーブ基金』『桜の会・平成の通り抜け』『海の森』といった植樹活動は、いずれも一般に寄付を募り、それを原資として少しずつ木を植えて、森に育てていくプロジェクトでした。つまり市民一人ひとりの参加を前提としています。私にとってはこの事が何よりも重要です」

 「人には、自分にとっての『心のふるさと』があります。人々の記憶に刻まれた風景を大切にしながら、緑豊かな自然を取り戻し、地球全体の環境問題について意識を向けることが出来るような活動に、地域の方々と力を合わせて取り組むこと。それが私のライフワークの一つとなっています」

瀬戸内オリーブ基金を立ち上げたきっかけ

──安藤先生が、中坊公平先生と瀬戸内オリーブ基金を立ち上げられたきっかけを教えてください。

 「ベネッセコーポレーションの福武總一郎さんに瀬戸内海の直島(なおしま)を現代アートの力で文化の島にしようという壮大な計画に誘われ、1980年代の後半から島の一連の施設の設計に関わっていました。その中で、香川県の豊島の産業廃棄物の問題も知りました。かつては緑豊かな島だった豊島は、70年代ごろから企業による産業廃棄物の不法投棄が行われたことで、自然環境が破壊され、島民の抗議が続いていました。この豊島事件で闘ってこられた弁護士の中坊公平さんとは以前からお付き合いがあり、ちょうど公害調停が成立した2000年にお会いした時に、『安藤さん、豊島のゴミを処理するだけではダメだ。かつての緑豊かな島に戻さなければならない』と言われ、協力して瀬戸内海の緑化活動基金を立ち上げることになりました。それが『瀬戸内オリーブ基金』です」

 「当時、私は阪神・淡路大震災の復興への取り組みとして『ひょうごグリーンネットワーク』という被災地の緑化活動を続けていましたので、植樹についてはノウハウがありました。中坊さんは、豊島の問題を日本の環境破壊の象徴と捉え、瀬戸内の自然を少しでも取り戻すことで、人々の環境に対する意識を変えようともおっしゃられました。その考えに、心理学者で後に文化庁長官にもなる河合隼雄さんも賛同頂き、3人が中心となって『瀬戸内オリーブ基金』は産声を上げることになります」

豊島遠景(写真提供:瀬戸内オリーブ基金)

柳井正社長との交流

──安藤先生と柳井社長が出会ったきっかけ、経緯を教えてください。

 「柳井さんと出会ったきっかけは、共通の友人による紹介でしたが、その後何年にもわたるお付き合いの発端となったのはやはり『瀬戸内オリーブ基金』でした。大阪に生まれた私と同様、山口県出身の柳井さんもまた、瀬戸内海に強い思い入れを持つ一人として、この活動に強い興味を示して下さりました。ご自身で多額の寄付を行う一方で、当時すでに全国500店以上あったユニクロ全店に募金箱を設置し、集まった寄付金に社として同額を上乗せして寄付する、いわゆるマッチング寄付をご提案頂いたのです。まずその決断のスピードに、感銘を受けたことを覚えています」

──ユニクロ、あるいは柳井社長との交流の中で、印象的なことがあれば教えてください。

 「圧倒的な商売の勘とアイデアでユニクロの世界戦略を牽引する柳井さんの姿から、瀬戸内での地道な植樹活動を連想するのは難しいところです。世界の第一線をひた走るビジネスマンの、意外な一面とも言えるでしょう。しかしその意外性は、ブランドイメージにもそのまま色濃く反映されているように思います」

 「私にとってユニクロといえばやはり社長である柳井正さん個人のイメージが強い。それは、ユニクロというブランドをよく知るより先に、柳井さんその人と知り合ったことも一つの理由ですが、なによりも柳井さんという人物のインパクトの強さによるところが大きいと思います」

豊島の産廃不法投棄現場を視察する安藤忠雄氏と柳井正社長(写真提供:安藤忠雄建築研究所)

安藤忠雄氏にとって、ユニクロとは?

──ユニクロというブランドにはどのような印象をお持ちですか?

 「ユニクロは、ただ寄付金を集めるだけでなく、全国の店舗スタッフから有志を募り、定期的に豊島で植樹をはじめとしたボランティア活動にも取り組み、今日までずっと続けて下さっています。こういった一連の活動を通して、私のユニクロというブランドに対する初期印象が固まりました。商品を深く知ることになるのはその後の話です」

 「ユニクロというブランドが人々に愛されてきたのは、単に安くて質の良い商品を展開しているからだけではなく、フリースやヒートテックといった革新的な商品を次々に打ち出して、新しい世界を切り拓いてきたからだと思います。人々の生活文化に変革を与え続け、今や日本を代表するファッションブランドへと成長しました」

瀬戸内オリーブ基金以外の取り組み

──瀬戸内オリーブ基金以外で、ユニクロやファーストリテイリング、柳井社長と一緒に取り組まれている社会貢献活動について教えてください。

 「社会貢献活動は、今や企業の当然の責務となりつつありますが、ユニクロはその先駆的存在です。2011年の東日本大震災でも、迅速かつ多大な支援を行われました。ユニクロのCSR(企業の社会的責任)には、たとえ広報的なメリットにつながらなくとも社会的に意義があると判断すれば、実務レベルから積極的に参画していく印象があります。それはひとえに、柳井さんというトップの決断力と行動力の表れであり、他の企業に簡単に真似できるものではないと思うのです」

 「被災地の子どもたちの遺児育英資金を立ち上げよう。そう考えた私が真っ先に電話したのは、やはり柳井さんでした。同じように、震災で親を亡くした子どもたちを支援したいと考えていた柳井さんは、『やりましょう』の一言。他に文化人や経済人を発起人として募り、『桃・柿育英会』が発足しました」

「桃・柿育英会」発足式の様子

今後ユニクロに期待することは?

──今後、ユニクロという企業に期待されることがあればお聞かせください。

 「柳井さんは、すばらしい発想力と行動力を持ち、責任感の強い、類まれな経営者です。建築家の仕事も、いかにして緊張感を持続するかが課題となります。新しい世界を切り拓く勇気が無ければ、先に進むことはできません。その意味で、常に新しいことに挑戦し続ける柳井さんの姿勢には、学ぶところが多いです」

 「柳井さんには、その失敗を恐れない、柔軟な経営戦略を持って、100歳になるまで走り続けて頂きたい。そしてユニクロは、今後も世界を舞台に、日本に元気を与え続ける企業であり続けて欲しいと願っています」

 

 2017年に国立新美術館で開催された「安藤忠雄展」には、「挑戦」というタイトルがつけられていた。「挑戦」とは、安藤氏が、既成概念を打ち破るような斬新な建築作品を次々と世に送り出してきたことと同時に、建築の枠をも超えて社会活動へ果敢に取り組んできたことを指しているのであろう。ユニクロの柳井正社長もまた、挑戦を続けてきた経営者の一人である。二人の挑戦者が、お互いを深く尊敬し、信頼し合っていることをひしひしと感じた。

 次回「第4回 スポーツアンバサダーと取り組む次世代育成」では、車いすテニス界のレジェンドで、ユニクロのグローバルアンバサダーの一人である国枝慎吾氏に取材する。