東京農工大学生協の「ひとことカード」に寄せられたやり取りをまとめた『生協の白石さん』(講談社)。2005年に出版され、100万部を超えるベストセラーとなった。著者の白石昌則さんは現在、日本生活協同組合連合会(東京都/土屋敏夫代表理事:以下、日本生協連)の広報職員として働いている。移籍の経緯や、「日本生協連の白石さん」としての仕事内容を聞いた。
日本生協連の会見受付に
白石さんの姿が
『生協の白石さん』には、大学生協宛の質問・意見、要望を記入する「ひとことカード」に日々寄せられる声と、それに対する白石さんからの回答が紹介されている。
「あなたを下さい。白石さん」
「私の家族にも話をしてみたのですが、『まだ譲ることはできない』との事でした。言葉の端々に一抹の不安は感じさせるもののまずは売られずにほっと胸をなで下ろした次第です」
こうした軽妙洒脱なやり取りが東京農工大学生の目に留まり、当時世に広がり始めていたブログを通じて、回答が拡散。白石さんは「時の人」として、さまざまなメディアに登場した。
それから20年近くが経ったある日のこと。日本生協連の記者会見に出席すると、受付で対応を行う職員の中に、見覚えのある顔を見つけた。あの「白石さん」だった。
聞けば、現在は日本生協連の渉外広報本部に所属し、広報を担当しているのだという。大学生協の顔とも呼ぶべき存在だったにも関わらず、なぜ、組織を離れたのか。現在は日本生協連で何をしているのか。疑問を解消すべく、後日、JR渋谷駅新南口のほど近くにある日本生協連を訪れた。
新型コロナ感染拡大が
移籍の転機に
白石さんは1994年、信州大学経済学部を卒業し、早稲田大学生活協同組合に入協。10年ほど勤務したのち、東京農工大学の生協に移籍した。「ひとことカード」が世間の話題を集めたのもこの頃だ。
当時、大学生協は地区ごとに事業連合があり、職員はおおむね、自身の所属地区内で異動や移籍をすることになっていた。白石さんの所属は東京地区で、『生協の白石さん』出版後も東京インターカレッジコープ渋谷店、法政大学生協、東洋大学生協と異動を続けた。
転機が訪れたのは20年。新型コロナウイルスの感染拡大によって大学での授業はオンラインに移行し、商品販売や運転免許の受付、食堂営業など、大学生協が実施する事業は一時停止に追い込まれる。経営面への打撃から大学生協はスリム化を余儀なくされ、ほかの地域生協や生協の連合会への転籍希望者を募ることになった。
当時、すでに50代に突入していた白石さんは職員スタッフに対して、転籍の意思確認や集約を行う立場にいたものの、「多くの職員はキャリアを築いている最中で、手は挙がらないだろう。一方自分はキャリアが終盤に差し掛かり、面談で異動希望の部署を聞かれることもなくなっていた。冷静に考えれば、自ら名乗り出るのがちょうどいいんじゃないか」と思い直したという。
地域生協に移る選択肢もあったが、最終的には日本生協連への移籍で話がまとまった。
日本生協連は、大学生協や地域生協などを含む単位の生協や、都道府県単位の連合会が会員として参加する全国連合会だ。会員生協の総事業高は約3.7兆円、組合員総数は約3000万人と規模も大きく、全国の生協と連携しながら社会制度の充実に向けた政策提言や、コープ商品の開発と会員生協への供給などを行っている。
移籍後、白石さんは大阪府大阪市内に拠点を構える関西支所で営業部署に配属され、兵庫県全域と大阪府北部を主な活動区域とする「コープこうべ」に商品供給を行う「フィールドスタッフ」と呼ばれる職種に就いた。
大学生協の在籍時代は商品を仕入れる立場だったため、雪害や道路事情などで到着遅延が生じると、取引先に「どうにかならないか」と言う立場にあった。それがフィールドスタッフになると、今度は自分が「どうにかならないか」と言われる立場になった。
「天候などの影響で物流に影響があると、コープこうべでは宅配注文を受けた商品が数千件、数万件単位で届かないこともある。組合員の皆さまに対する説明も非常に骨が折れるもの。物を受け取る側の認識や、納品の重要性について理解が深まった」と話す。
5年後に定年
今できることに尽力
休日は大阪・通天閣や神戸・有馬温泉などを訪れ、関西暮らしを楽しんでいた白石さん。しかし、家族を東京に残しての単身赴任だったこともあり、いずれは関東に戻りたいという希望があった。関西支所で2年余り働いたのち、渉外広報本部に異動し、再び東京での生活をスタートした。
広報としての仕事は紙媒体やコーポレートサイトでの発信、社外向けニュースリリースの発信、マスメディアの取材対応や記者会見準備など多岐にわたる。
白石さんの現在の担当業務も、イベントや取材対応、事業や商品の情報発信など幅広い。考えが改まったのは、SNS(日本生協連公式Xアカウント)を使った情報発信だったという。大学生協時代もXの運用には関わっていたが、文面は1人で考えることが多かった。一方で、日本生協連では広報チーム全体で発信構想や、投稿の文案を検討している。
「尖っていたり、ハレーションが起こりそうな内容に関してはチームで点検を行っている。フォロワーさんにも温かいコメントを返してくださる方が多く、この温度感を保っていければと思っている」
24年6月には55歳となる白石さん。見た目は『生協の白石さん』の発刊当時と変わらず若々しいが、5年後には定年退職を迎える。
残された社会人人生でやりたいことはあるかを尋ねると、「先のことを考えるよりも、今できることを最大限やり遂げたいという思いの方が大きい。自分の力で組織にとって役に立つことができるならば、そこに尽力したい」と、朗らかな答えが返ってきた。
23年4月には『帰ってきた生協の白石さん』(講談社)という書籍も発売され、『生協の白石さん』発売当時の大学生(現40代)、令和時代の大学生から寄せられた質問に対し、当時と変わらないユーモアに富んだやり取りが展開されている。所属や立場が変わっても、「日本生協連の白石さん」の中を支えるのはやはり「生協の白石さん」なのだった。