第288回 ペガサスクラブ最初の挫折と、ロードサイドからショッピングセンターへ

樽谷 哲也 (ノンフィクションライター)
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評伝 渥美 俊一(ペガサスクラブ主宰日本リテイリングセンター チーフ・コンサルタント)

「最初の挫折」

 1974(昭和49)年3月に施行された大規模小売店舗法(大店法)が善(よ)きにつけ悪しきにつけ日本のチェーン化勢に影響を、大きく、長く与えた、という渥美俊一の指摘は、より吟味(ぎんみ)しておく必要性を今日(こんにち)も持っている。

 時代背景として、その前年、1973年10月に勃発(ぼっぱつ)した第4次中東戦争によって原油価格が暴騰し、翌1974年には狂乱物価と呼ばれるほど、トイレットペーパーや石鹸(せっけん)、洗剤などの生活用品の価格が急上昇して、店頭で客同士の奪い合い、買い漁りになるほどの異様な事態となっていたことを挙げておきたい。世にいうオイルショックである。ある年代以上の読者諸賢はよく記憶されていることであろう。小売店への供給元である大手商社による商品の買い占め、売り惜しみが国会で追及されることにも発展した。

 やはり渥美が指摘しているように、そのような社会情勢にあって、ダイエーや西友などの拡大に血眼となっている大手チェーン勢が「大店法が制定される時期に、駆け込みであちこちにどんどん店をつくった」ため、彼らに有利な状況をお膳立てすることになっていった。

 大店法が施行され、その対象となった各地の新規出店の賛否と調整を図る商業活動調整協議会(商調協)に既存店側の代表としてペガサスクラブ会員である大手チェーンが加わることで、問題はより複雑となっていった。

 一方、「消費者の復権」という御旗も掲げる渥美俊一は、オイルショックのいまこそ低価格で商品を安定供給するチェーンストアの使命を果たすべきであると、「価格凍結宣言」をペガサスクラブ会員企業に主唱した。ダイエーや西友をはじめ、呼応したチェーンは少なくなかったが、次々と脱落するようにスローガンをとり下げ、値上げに踏み切るようになる。

 渥美は、「ペガサスクラブにとって最初の挫折(ざせつ)だったといえるかもしれません。僕にとっても非常に苦(にが)い記憶です」と振り返っている。

 大店法の施行によって新規出店が阻(はば)まれたため、「ペガサスクラブ会員企業もごっそり減った時期でした」というのも実際のことである。

 毎年末にペガサスクラブ会員企業数を公開してきた日本リテイリングセンター(JRC)の記録によれば、

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記事執筆者

樽谷 哲也 / ノンフィクションライター

1967年、東京都生まれ。千葉商科大学卒業。雑誌編集者を経て、98年からフリーランスに。渥美俊一とJRC、流通企業と経営者、周辺の人物への取材は10年以上に及ぶ。「人間 渥美俊一」を渾身の筆で描く。

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