ユナイテッドアローズ重松理名誉会長が語る、創業秘話とビームスを立ち上げた理由とは

野澤正毅
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「セレクトショップ御三家」と言われるビームス、シップス、ユナイテッドアローズ。そのうち、ビームスとユナイテッドアローズの生みの親、育ての親とも言えるのが、重松理・ユナイテッドアローズ名誉会長だ。日本のファッションビジネスを今日まで発展させた、立役者の一人と言ってもいいだろう。そんな重松氏の原点は、生まれ育った逗子で、米国のカジュアルファッションの強烈な洗礼を受けたことにあるようだ。

当時は珍しかった米国のカジュアルファッション

―重松名誉会長はこれまで、一貫してファッションビジネスに携わってきたわけですが、学生時代からファッションに関心が高かったのでしょうか。

重松 神奈川の逗子で生まれ育ったので、その影響は大きかったと思います。米国のファッションは、当時の日本では珍しかったのですが、横須賀に在日米軍の拠点があるので、子供の時からそのようなファッションに触れる機会が多かったのです。日本のファッションとは全く違っていたので、とても新鮮で、感性が大いに刺激されたんでしょうね。

それで、ファッション業界を志望されたのでしょうか。

重松 ファッションなら馴染みがあるので、取っつきやすかったんですね。僕は文科系だったのですが、例えば、人気のある金融、総合商社などは敷居が高いし、就職してからも大変そうだなと。それで、ファッションの大手企業5社の採用試験を受けました。ところが、全部落ちてしまいまして(笑)。

当時は学生運動が真っ盛りで、在学中の約3年半、キャンパスが封鎖されていたんですね。講義が受けられず、単位を取るのもレポート提出のみ。そんな状況だから成績も悪くて留年してしまい、卒業するまで5年かかりました。大学に通う代わりにアルバイトに明け暮れて、東京に行くこともほとんどなかった。

しかし結局、ファッション関係の会社に無事、就職されたそうですね。

重松 大学に募集がきていた、東京・岩本町の生地問屋の子会社でダックという婦人服メーカーに入社しました。そのころは岩本町や神田あたりがアパレルサプライヤーの中心地だったんですよ。

婦人服といえば、鈴屋や高野のようなチェーン店、西武や伊勢丹、阪急のような百貨店がリードしていましたが、たまたま配属先が渋谷区・神宮前で、そこではいわゆる「マンションメーカー」が一斉を風靡していました。ファッションが神田から千駄ヶ谷、原宿、青山、渋谷に移るちょうどそのタイミングで、単純にその近辺で仕事をすることになったのがはじまりですね。表参道などにショップができはじめたころでもあって、毎日商品サンプルを持って都内を回っていました。

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