チェーンストア理論の行き着く先は無人店舗、無店舗販売になる皮肉な理由
商業が実践していたのは「教育」ではなく「訓練」
企業には2つの大きな任務がある。1つはもちろん、いま現在の成績を確保し向上させること。もう1つは、未来において、それ以上の成績を上げ続けることである。それには、人材を育成するしか方法はない。「個店経営」は、その唯一といっていい方法である。
なぜそう断言できるのか、少し回り道をして説明する必要がある。最初に指摘したいのは、これまで流通業で「教育」「人材育成」といわれてきたものの多くは、実は「教育」ではなく「訓練」であったという事実である。
一般に企業で「教育」と呼ばれているものは、厳密に区別すると「訓練」と「自己育成(=教育)」に二分される。「訓練」とは、肉体および精神を、「ある決まった型」にハメ込む、なれさせる、強制することである。だが「教育」とは自己育成、すなわち自分で自分を教育すること、自分で考える力を身につけさせることである。
流通業が流通業と呼ばれる前、「商業・小売業」と呼ばれていた時代に行われていたのは、すべて「教育」ではなく「訓練」であった。その訓練は、身体的な「しつけ」と、精神論、すなわち「商訓」の厳守として行われた。
身体的なしつけとは、人間の身体に一定の動作・反応を覚えさせることである。たとえばお客の姿を見たら、反射的にある角度で頭を下げ、腰をかがめ、「いらっしゃいませ」といい、笑顔を浮かべる。それができるように身体を訓練することである。
一方で、「商訓」とは、そのしつけを身体ではなく頭に施すものである。たとえば、お客さま第一主義を肝に銘ずることがそれである。そこには「自分で考える」という要素は見られない。
「考える」とは、言われたことをそのまま黙って信じて行うことではない。むしろ「それは本当か」と疑問を抱くことから始まるものである。商訓という精神論を頭から信じるということは、「商売をやるのは、本当は自分がお金を儲けるためではないか」という誰しもが当然に抱くはずの疑問を禁じ、「とにかくお客さま第一主義という商訓を信じよ」と迫ることである。これは「考える」こととはほど遠い。
身体にしつけを覚えさせることは、技術上必要だとしても、精神あるいは心の中まで商訓を強制的に信じさせ、覚えさせるのは、疑問を抱いて考えるという精神の本質と矛盾するものである。