昭和22年(1947年)。岐阜の恵那峡から、遠縁の菓子問屋を頼りに、22歳の女性が単身、上京した。戦火に焼かれた焦土にもようやく復興の兆しが見え始めていた。女性は、それから1年で4坪の菓子屋の開店にこぎつけた。
店が小さくても勝つための方法
場所は、東京大田区の下町、荏原中延。街には、電機関係の町工場が数多く立ち並んだ。
東京通信工業(現:ソニー)や片岡電気(現:アルプス電気)などの創業期で日本経済は、1950年に勃発した朝鮮動乱で活気づき、ようやく茶と菓子を楽しめるだけの余裕ができていた。工場に勤める若者たちは、“町の小さなお菓子屋さん”を目指しわんさと集まり、どの店もずいぶんと繁盛した。
儲かるところに競合が殺到するのは世の常である。数えれば、「4坪」の100メートル四方には12店舗のライバル店があった。
「立地は最悪。お店は最小」と女性は遠くを見つめながら懐かしむ。
競合は激化の一途をたどっていたけれども、「4坪」の店主には夢があった。
「地域で1番になりたい」。
当時、ライバル視していたのは、中延駅前にでんと構える20坪の菓子店だ。経営者は、周辺の大地主だ。
まったく歯が立たなかった。
女性の「4坪」は1年後には、開業時の2倍の稼ぎになっていた。でも3倍にしたところで売上では「20坪」を到底超えられない。
「どうしたら勝てるだろうか?」と女性は、いつもいつも考えた。
たどり着いた結論は、支店の展開だ。
「お店は小さくてもたくさんあれば、総売上では勝てる」。
「4坪」を出してから、3年後のことだった。
そこから10年のあいだに「4坪」を取り巻くようにして5つの店を開いた。従業員は1つになって遮二無二に働いた。気づけば、売上では地域最大の菓子屋になっていた。
もうそのころには、女性が新しい店を出すことを知ると、近所の店は逃げるように撤退した。女性のお店は競合にとっては脅威となった。
100点を取らせて伸ばす、独自の教育主義”
支店を増やすにあたっては、従業員に10代の女の子ばかりを使った。
「中卒は“金の卵”」と言われたころの話だ。お店と女性は、取引先からもお客からも信頼されていたから、毎年のようにいろいろな人から紹介を受けて中卒女子を採用することができた。
しかし、初めて2人の中卒女子を採用するときには「未来のある若者をはたしてうちのような店であずかってもいいものなのか?」と深く悩んだ。
内定を出す前に女の子たちの家庭訪問をしようと考えたのは、ためらいをふっ切り、自らを奮い立たせるためだ。
栃木にあったそれぞれの自宅を訪ねると、2人ともに長女で、家はとてつもなく貧しい。薄暗く小さな部屋には両親とたくさんの弟妹たちが同居している。
そんな家庭環境を目の当たりにして、「長男長女がちゃんとした人生を送らないと、弟妹はロクなものにならない」と自分の母親から幾度となく聞かされた言葉を思い出していた。
そして、採用を前にして女性は気持ちを引き締め言った。
あなたの家は、おカネがない。あなたの嫁入り支度なんてとてもできないでしょう。でも、もし私のところに来てくれるのなら何とかします。もちろん、しっかり働いてもらいます。貯金もしてもらいます。自分で支度をして、私の店から嫁ぎなさい」。
とまどいを振り切った瞬間だった。
その言葉に、感激した女子たちは昼に夜を継ぐこともいとわず、本当によく働いた。
計算ができない子には、毎朝100点満点を取れるようなテストを出して自信をつけさせながら商売を身につけさせた。「100点成長主義」と名付けた独特の“人財共育”である。
「女の子たちを教えていたんだけれど、逆にいろいろなことを学んだ。だから“共育”なの」。女性は振り返る。
就職から5年、成人式を祝った後、たいていの子は21歳くらいで嫁に行った。
「若さしか武器がないんだから、嫁に行けるときに行かせてしまおう」という親心からだ。
そこには、確固たる信念があった。
将来的に金銭の苦労をさせたくなかったから、家持ちでなければ結婚を許さなかった。
数えてみれば、そんな風に送り出した女の子は実に21人。
「家持ちに嫁いだから、嫁姑問題はあったけど、後藤社長にこき使われていた時より、全然楽よ」と女の子たちはかしましく当時を語り合う。
その女の子たちもいまはもうみな傘寿手前だ。
齢を重ねても、苦しいときに同じ櫃に入ったごはんを食べた仲間たちの結束は固く、熱海では年に数度のOG会が開かれていたと聞く。
もちろん、その席には女性――東京都と神奈川県内に19店舗を展開する文化堂(東京都/山本敏介社長)の後藤せき子相談役――も出席していたそうだ。
なお、後藤さんは2015年に紺綬褒章を受章している。