「時代に遅れ続ける」だから持続可能 京都の老舗鞄メーカー「一澤信三郎帆布」悟りの経営とは
米名門大の「なぜ拡大戦略をとらないのか?」に対する回答
「これだけ顧客の支持を集めているのになぜ拡大戦略をとらないのか…」。経営をかじったことのある人はもちろん、経営を学問として研究する者にとってもナゾでしかない同社の経営スタンス。実際、古くから経済・商学関係の優秀な生徒を輩出し続ける、米ジョージア州の名門、エモリー大学の教授がその噂を聞きつけ、毎年学生とともに同社を視察に訪れるという。そして視察後、当然のように「なぜ?」と質問を投げかけてくる。
一澤社長はそれに対し、「放っといて」と笑った後、決まってこう答えるという。「どんなに頑張っても1日5回はご飯は食べられんでしょ」と。まるで禅問答のようだが、この答えにこそ、同社の経営の極意が凝縮されているといえる。
作り手が楽しみながらつくる、開発計画は立てない、ノルマは設定しない、製造マニュアルをつくらない、店舗は1店舗のみとし工房と直結させる…。非常識にもみえる同社の数々の「時代に遅れ続ける」経営施策は、実はその全てが自然体でいられることを見据えている。逆にいえば、道理に合わないことをすることで大切な何かが失われるーー。そのことを、代表自身がどこかで悟っているのだろう。
重要なことは「職人が機嫌良く働けること」
より具体的には「人間の持つ力」が、それといえるのかもしれない。鞄づくりに当てはめるなら、帆布の匂い、帆布の手触り、帆布の色、帆布加工で発生する音…作り手が心から満足できる、まともなものづくり。それは五感を総動員して初めて成し遂げられるーーそう確信しているからこそ、それらを難しくしたり、阻害したりすることは、微細なことでもできる限り排除する。そうした姿勢が、結果的に時代や世相に流されない、同社のものづくりの確固たるスタイルの醸成につながっている。
「みんなが機嫌よく働けるのが一番」。飄々と受け答えする一澤社長が唯一力を込めたのが、人材育成に関する質問へ向けられた、この言葉だ。これを実践するためには、工房と店舗が隣接している必要がある。なぜなら、常に職人と顧客の表情を、代表自身がその目と耳で確認する距離感が大切だからだ。このこともまた、同社が規模を拡大しない理由だろう。