五感マーケティングの可能性
流通業界では、バブル景気(1986年12月~1991年2月)以前からバブル崩壊までの期間に、進取の気概に富む企業は、独自性を追求して、マーケティングとイノベーションをさまざまなアプローチで推進してきた。
五感マーケティング(視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚に訴求する取組)への投資も惜しまなかったという。
色の研究の第一人者的存在である日本カラーデザイン研究所(東京都)取締役の杉山朗子さんは証言する。「80年代から90年代初めにかけての小売業は、カラーコーディネートの研究に余念がなかった。教育投資も惜しまずに社員に色の基本を勉強させた。けれども、バブル崩壊以降は、こうした意欲は減退してしまった。色の基本は難解なものではないが、もはやこの知識を持つ人間は小売業の中にも少なくなってきている」。
マーケティングとイノベーションへの意欲減退の転機になったのは、コスト削減による効率経営のムーブメントである。
小売業各社は、バブル崩壊以降、直接的な効果が見えにくいコストを極端なまでに絞ってきた。企業の優先課題はゴーイングコンサーン(=永遠に続くこと)なので、その当時は正攻法だったといえよう。
だが、小売業界のマーケティングとイノベーションは、依然としてかつてのような形には戻っていかない。本来、小売業は、消費者の変化に合わせて絶えず、変わっていく必要があるにもかかわらずだ。
建築会社が提案する店舗を建て、内装や照明、空調機器はパッケージとしての既製品導入、しかもマーチャンダイジング(商品政策)はメーカーやベンダーに依存――。
ということになれば、店舗の同質化が進むのは自然の摂理だ。GMS(総合スーパー)、SM(食品スーパー)、コンビニエンスストア、ドラッグストア、ホームセンターなどの店舗同質化の一因は、こんなところにある。
もちろん同質化であっても、オーバーストア(=飽和状態)でなければ、成長の余地はふんだんにある。しかしながら、もはや日本市場は、たいがいのフォーマットは飽和状態にあり、何らかの差別化を図っていく必要がある。
同質化の行きつく先は、安売り合戦だ。店舗設備も扱っている商品も同じであるならば差別化は価格で図っていくしかないからだ。そして、各社ともに、原資なき赤字覚悟の出血セールを繰り返し、製・配・販揃って低収益体質から脱することができなくなっている。
早稲田大学商学部の恩蔵直人教授は、「食品メーカーの販売促進費は1993年から継続して上がっている。これは何を意味するのといえば、かなりの値引きの原資になっている」と指摘する。
では、「同質化→安売り競争」という悪いスパイラルを断ち切るための方法はあるのか?
その1つとして、検討の俎上に載せたいのが、五感マーケティングだ。
実は、他の産業では、五感を意識したマーケティングに傾注するメーカーが少なくない。
たとえば、自動車業界では、高級車がドアを閉める際に発する「ボン」という音の開発に何億円の費用を投じている。また、“新車の香り”についても研究しており、納車された時の“あの香り”をいかに出していくかにも多くの費用がつぎ込まれているのだ。
最近は食品スーパー(SM)の売場でも、五感のうちの“香り”については、新しい試みにチャレンジする企業が目に付くようになった。
焼き芋、お好み焼きのソースの臭い、コーヒーの匂い、パンの焼ける匂いなどを売場に流し、消費を喚起しようというものだ。
だが、いまのところ、それは場当たり的なアイデアを具現化しただけの代物とみられ、その効果や効能には科学的裏付けがあるようには見えない。しかも、“香り”を発することによって、売上が増加している商品、逆に減少している商品などの検証もされていないだろう。
五感の“音”に関していえば、SMの鮮魚部門では、従業員の威勢の良い掛け声が響き渡る売場が増えてきた。また、『おさかな天国』をエンドレステープで流し続ける売場もある。だが、SM売場に訪れるのは、それらを単純に受け入れることができるお客ばかりではない。病を患っている人もいれば、暴力的な騒音に辟易とする人もいるはずだ。
そうした人たちのことも考慮に入れながら、五感への働きかけと効果を科学的に分析して売場化するのが五感マーケティングの考え方だ。
「BGM、香り、照明、触感など、がこれからのマーケティングでは重要になるのではないか」と早稲田大学恩蔵教授は明言している。
残念なのは、五感マーケティングの投資対効果は現状ではなかなか試算できないことにある。これを実践したからと言って、即座に売上や利益の改善につながるかどうかは分からない。
ただ、同質化と価格競争一辺倒の現状から抜け出し、差別化を図っていくという意味においては、五感マーケティングは効果を発揮することに違いない。
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