日本の酪農を巡る厳しい状況を背景に、酪農家から乳業メーカーに販売される飲用向け生乳※の取引価格(乳価)が4月から1キロ当たり4円引き上げられ、さらに各乳業メーカーでも、人件費や物流費、包材価格などの高騰により、牛乳等の小売価格が値上げされました。そのような中、懸命な努力を続ける酪農家の声、また専門家の話から、安全・安心な国産の牛乳・乳製品の安定供給のために何が必要か、その課題を考えていきます。
※生乳(せいにゅう):乳牛から搾ったままの何も手を加えない乳のこと。
努力と工夫で安全安心な生乳の安定供給を
大きな設備投資が必要な酪農経営
澤田真さんが酪農を営むのは石川県中部の河北潟。金沢市内から数十分の都市圏に隣接する場所で、広大な牧場を経営しています。
「もとは稲作のために干拓された土地ですが、減反政策への転換で酪農団地として整備されました。ここに父の代に入植して、酪農を始めました。この広大な農地を見て父は、大きなトラクターに乗って牛の餌をたくさん作るような、他の地域ではなかなかできないダイナミックな酪農ができると大きな魅力を感じたそうです」と澤田さん。
「しかし、これだけ規模の大きな牧場を始めるにあたって、父は多額の負債をかかえました。大きな決断だったと思います。私は親父が牧場をしていなかったら、この仕事をしてはいなかったと思います」と語ります。
酪農の魅力を伝えられる場が増えるといい
澤田さんは石川県農業短期大学卒業後、北海道の牧場での研修を経て、1992年に就農。2003年に父から経営委譲され、2008年に牧場を法人化しました。
「酪農をするうえで必要なのは、人・牛・地域の調和だと考えています。そのため、“~の調和”という意味を込めて、社名を『株式会社Harmony with』にしました」
現在、正社員は5名。「法人化したおかげもあって、いい人材が入ってきてくれました。休日をしっかり確保し、“ゆとりを持って好きな酪農を”という働き方が実現できていると思います」といいます。
「4月に乳価が上がったのはありがたいです。増収分は牛舎の修繕など、今後の生産のために充てたいと思っています」とのことです。
しかし、将来については、不安もあります。
「酪農は他の農業と比べても大きな初期投資が必要です。若い人が牧場を始めたいと思っても参入できる仕組みが確立していません。人手不足も問題です。うちの牧場も将来の規模拡大に際して、人手が確保できるか、それが心配です。酪農の魅力を伝えられる場が少ないのかもしれない。もっとそういう場が増えればいいと思います」と澤田さん。
そのためご自身でも、経営するジェラートショップのポスターやパンフレットで「酪農家直営」を謳い、「“酪農”を前面に出したい」と、ユニークな牧草味のジェラートも開発し、注目されています。
「ジェラートショップで知って、牧場に足を運んでくれる人も出始めています。酪農に興味を持ってくれる方がいるのはうれしいですね」と手応えを感じています。
安定生産のために努力する酪農家
Harmony withでは現在約120頭の乳牛を飼い、年間約1千トンの生乳を生産。
「いい飼料を作って与え、牛舎環境の快適性を高めることで牛の能力を引き出し、生産量を高めることを心がけています。特に最近は夏が暑くなってきているので、暑熱対策には一番力を入れています」といいます。
乳牛は元来、寒さに強い動物ですが、暑さには弱いため、本州で酪農を続ける上では、どの地域も夏期における暑熱対応が課題となっています。生乳はそんな、暑さに弱い乳牛が出してくれるものですから、そこに苦労があります。
「年間を通じて生産を安定させるためには、需要がある夏に搾る量を確保しなくてはいけません。しかし、子牛が生まれて、約2カ月後に母牛の泌乳量のピークが来るので、それに合わせて出産時期をコントロールしなければならず、そのためには一番ぐったりしている夏に受胎させなければならないので、非常に難しいことなのです」
これからも頑張って生乳生産を維持する
現在、酪農家が減り続けている状況の中、「新規就農はとてもハードルが高いです。私は残った酪農家が生産を頑張るしかないと思っています」という澤田さん。
父が大きな設備投資をして作った牧場があり、その牧場で経験を積んで磨かれた酪農の技術に裏付けられた安全・安心な生乳は、澤田さんの誇りです。
「酪農家は大切に牛を飼って、衛生面に気を配りながら、毎日、安全・安心な生乳を生産しています。店頭にはいろいろなパックの飲み物が並んでいますが、牛乳はどれも日本の生乳100%で作られています。牛乳は生活必需品でありながら、買い置きができないため特売の対象になりやすい商品ですが、牛乳の価値に見合った価格であってほしいですね。これからも皆さんに国産の牛乳を飲み続けていただきたいので、がんばって生乳を生産し続けていきます」と決意を語りました。
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フードシステム全体のために適正な牛乳小売価格を
フードシステム全体のために適正な牛乳小売価格を
フードシステム各段階の利益の均等化が重要
フードシステムとは、農場から、製造、卸、小売や外食産業を経て消費者に至るつながりの全体を指します。「これらは相互に関係しあっており、各段階それぞれの利益が均衡していることか必要で、それが成り立たないとシステム全体が維持できません。今、一番問題なのは、多くの農場段階において再生産ができるような状況ではなくなっていることです。生産にかかるコストに無駄が多いというのなら問題ですが、そうではありません。社会的に妥当な効率で生産を行っているのに、その生産費を回収できないのです」と立命館大学の新山陽子教授は語ります。
「農林水産業から生産物の供給ができなくなれば、食べ物がなくなり、フードシステムそのものが存続できません。いかにして各段階のバランスがとれた状態にしていくかが課題です」と警鐘を鳴らします。
牛乳の適正な価格とは
「特に畜産物においては、スーパーマーケットなど、フードシステムの川下の大手小売店のバイイングパワーが非常に強くなっています。牛乳などは特売の商材にされることも多く、適正価格を大きく下回る価格で販売されているのが現状です」と新山教授。
フードシステム各段階で適正な利益を得られる価格が適正な価格です。では牛乳の場合それはいくらなのでしょうか?
酪農経営を存続していくことができる生産者乳価に、フードシステム各段階での公正な利益を加えて算出した新山教授の試算によると、牛乳1リットルあたりの適正な小売価格は248~268円※となり、実際に店頭で販売されている各牛乳の価格は、多くがこれよりかなり下回っています。
「この数字を知れば、今までは何とも思わなかった牛乳1リットル200円以下という価格について、これでいいのかと考えるきっかけになるのではないでしょうか」と問題提起しました。
※税抜き/中小乳業の場合/2014年試算
低価格が続く牛乳
「消費者は、昨日買った、最近買った牛乳の価格の記憶によって作られる『内的参照価格』によって、牛乳の価格を、高い・安いと判断します。特売など目につく売り方の安い価格が、内的参照価格を下げていくのです」と新山教授。
また、同じ農産物であっても、たとえば野菜などは天候不順で価格が上昇することなど、消費者の理解も得やすいのですが、牛乳の場合、供給に変動が少ないため例えば、国際穀物市場や為替の影響で飼料価格が高騰し、酪農家の生産コストが上がる、といったことは消費者はなかなか理解することができないのです。
そういったこともあり、牛乳の小売価格は低く固定される傾向が続いています。
薄利多売からの脱却
また新山教授はこうも言います。
「『消費者の暮らしを応援するために安売りをする』という考え方もあります。しかし、消費者は、『価格』で『品質』を判断している側面もあるため、『安く買ったもの』の品質を低くとらえ、粗末に扱い、廃棄につながることになりはしないでしょうか。食品ロスが大きな問題となっている今、小売店が牛乳を大切に取り扱うことで、消費者の買い方に影響を与えていくことには、倫理的にも社会的意義があると思います」
また、同じ額の売上を上げるために、単価が高い商品のほうが利益が大きく、販売個数が少なくて済み、労働者の作業量も少なくできる、という効率の問題もあります。
「皆が安売り競争をしている中でそれを変えていくのは簡単ではありませんが、疑問を持って、現状とは違うビジネスモデルに変えていくことを、フードシステムの構成員として考えていただきたいと思います」