商品開発ではなく大量の商品調達を優先
1960年代後半から日本型スーパーストアを開発した企業は急速に多店化した。人口急増中だったサバブに、モータリゼーションの発展に適した駐車場付きの大型店で、衣食住のマストハブアイテムを低価格で販売するフォーマットだった。最大手のダイエーは72年、年商3000億円を突破し、百貨店の三越を追い抜いて小売業最大手に躍り出た。新フォーマットに乗り換えた経営戦略が成功したのだ。その後、80年には同社の年商は1兆円を超えるまでに拡大したのである。
ダイエーだけではない。日本型スーパーストアはイオン(当時はジャスコ)もイトーヨーカ堂もユニーも、このフォーマットに参画した企業は押しなべて日本全国に大型店の開発を進め、成功させたのだ。開店すれば自家用車に家族を満載してお客が押し寄せ、食品も衣料も家庭用品も売れに売れた。客層が広く購買頻度の高い品を低価格販売すればなんでも売れた。それだけ人口の増加と経済の活性化が急速に進んだ時代だったのだ。
企業側には日々売上高という現金が手に入る。商品の仕入れ代金や人件費や不動産費などの経費の支払いは1カ月以上後だから、その回転差資金を利用してまた新店をつくった。開店するには売場を商品で埋めねばならないため、日本型スーパーストア各社は、商品開発に時間をかけるよりベンダーを自社のバイヤー並みに使いこなして、短期間で大量の商品調達を進めるほうを選んだのだ。
そのため、チェーンストア経営の根幹であるバーティカルマーチャンダイジングシステム構築を後回しにした。有能な人材は商品部ではなく店舗開発部に数多く回し、他社との優良立地の取り合い合戦を制するほうを優先したのである。
日本型スーパーストアは店舗規模が数千坪にもなるため、従業者数も多く3ケタに至る。そのオペレーションを担う店長や他の現場マネジャーも数多く必要となり、商品部の増員はますます後回しになる。そのために品揃えの提案はベンダー任せとなり、自社の商品部員はバイヤーとは名乗りながらも実際の業務はベンダーが調達してきた商品を自社が扱うための事務作業が主なものとなった。商品開発は人材が揃ったところで始める計画だったのである。
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