オーケー(神奈川県/二宮涼太郎社長)の創業者であり代表取締役会長の飯田勧氏が2024年4月2日、肺炎のために永眠した。1928年3月23日生まれ、享年96歳。ここでは、飯田氏のご冥福をお祈りするとともに在りし日を偲び、『チェーンストアエイジ』誌2012年4月1日号(創刊1000号)の記念特集「現代のゲームチェンジャー」から記事を転載する。なお、本文は一部修正し、役職や数字は当時のままとした。
オーケーを率いる飯田勧社長はEDLP(エブリデイ・ロー・プライス)を経営の基本方針として顧客の支持を得て、企業規模を拡大させている。EDLPを開始した当時は取引先から賛同を得られなかったものの、飯田社長は「EDLPを徹底させる」という自らの信念を貫き、ゲームチェンジに果敢に挑んできたのである。
若いころに受けた父親の薫陶
飯田社長は1928年、東京・日本橋で酒卸売業を営む岡永商店の三男として生まれ、裕福な環境で育った。長兄、次兄は高校、大学へと進学したが、飯田社長は中学を卒業後、海軍兵学校へと進学する。海軍兵学校は海軍将校を養成するエリート校である。
終戦とともに海軍兵学校を卒業。大学に編入するには年齢が足りず、実家の商売を手伝うことを決める。しかし、実家は45年3月9日の東京大空襲で焼失していた。
そのため父親の飯田紋次郎氏が所有していた葉山の別荘で過ごしたり、栃木県に所有していた梨畑で収穫を手伝ったりするなど職を転々とした。その後、父親が東京で商売を再開。飯田社長も手伝い始めたことから、商売人としてのキャリアがスタートする。
「私たち兄弟は子どものころより、父親から利益の上乗せはほどほどにして、質素倹約を心がけることが大切だと聞かされてきました。一緒に仕事を始めてからも、このことを繰り返し父親から教え込まれました」。
父親からは商売の基本として、余計なことをせずに商売だけに集中することも教わっている。「19歳のときに株の売買を始めました。父親に株をやりなさいと言われたのです。父は相場のことをいろいろと教えてくれたのですが、2年ほど経ってから『いくら儲けた?』と聞くのです。わずかながら儲けがあることを伝えると、『金利ぐらいにしかならないじゃないか』と言うのです。
『株で儲けようと思っても、預金するのと同程度しか利益はでない。ならば自分で会社をつくり、業績を上げるほうがよっぽど世のためになる』と伝えるために私に2年間も株をやらせたのです」。
▼参考記事
https://diamond-rm.net/management/55345/2/
比叡山に預けられる
終戦後は食料品の統制が厳しく、酒類は配給制となった。そのため酒問屋の営業を再開することはできなかった。そこで父親が始めたのが、当時需要が高まっていた漆器を扱う問屋だった。この漆器問屋の営業を続けているうちに、49年には酒類販売が自由化された。飯田社長の父親はすぐに岡永商店の営業を再開し、飯田社長も経営に参画する。
「自分で言うのも恥ずかしいけれど、優秀なセールスマンでした。仕事も遊びも一生懸命で、楽しい時代でしたよ」と飯田社長は当時を振り返る。
「でもその遊びが度を過ぎ、父親の怒りを買ってしまった。それで比叡山の寺に預けられることになりました」と苦笑する。
比叡山には約半年間滞在した。「僧侶の方々からおまえはいい坊主になると言われてね。とてもよくしていただいた。居心地がよかったものだから、このまま居続けたら山から下りることができなくなるのではないかと不安でした」と打ち明ける。
比叡山を離れるきっかけとなったのは、米国視察だ。このころ通商産業省(現:経済産業省)は、米国への日本酒の輸出の可能性を探るために調査員を募集する広告を新聞に掲載した。それに応募した飯田社長は見事に審査を通過。同省から支給された500米ドルを手に、米国に渡ったのが55年である。
「とくに米国に憧れを持っていたわけではなかったけれども、外国を見てみたいという気持ちはありました」と初めての海外行きについて述懐する。海軍兵学校時代に英語を身につけており、飯田社長は一人で渡米している。
米国で学び、自ら試行錯誤を続ける
米国で見聞を広め、行く先々ではいろいろなことを学んだ。
飯田社長は、この視察で米国の SMから大きな影響を受けたのだろうか?
さにあらず。「ほかのことばかりに気を取られてしまい、SMを見る機会はほとんどありませんでした」と述懐していた。
SMに関心を持ったのは、帰国してから購読を始めた『リーダーズダイジェスト』誌(1922年創刊された総合雑誌)で、米国の食品小売市場でSMが勢力を拡大しているという記事を読んでからだ。
この記事をきっかけに、飯田社長はSMの事業展開について可能性を探り始めた。「問屋は売掛が多くて現金を回収するのに苦労していました。SMは現金商売だから資金繰りの心配は少ない。そのうえ今後発展する可能性が大きいと思ったのです」。
そして58年6月25日、岡永商店の小売 部門としてSM1号店を東京都板橋区内に開業した。出店費用の元手となったのは、父親から借りた500万円。SM経営のノウハウもなく、最初は苦労した。商品の仕入れ先も一から探さなければならないため、社員が某百貨店の納品口で待ち構えて、どの会社から仕入れているのか調査することから始めた。
「マークした会社に電話をしてみても、すぐに取引してくれる会社は少なかった。商品を卸してくれるとしても、卸値は他社よりも高いものでした」と当時を振り返る。
1号店は開業当初こそ集客したものの、次第に客足が遠のいていった。この状況を打開するため、新たな仕入れ先を開拓して品揃えの拡大を図るなど、試行錯誤を続けた。
当時は今と異なり、チェーンストア経営に関する書籍はまだ少なかった。参考にしたのが米国の流通専門誌だ。中でも『プログレッシブ・グローサー』誌(22年創刊)を購読し、必死に勉強した。店舗数は年々増加し、1号店開業から15年ほどで20店舗体制を築いた。
飯田社長は店舗の立地やレイアウト、店舗オペレーションなど、店舗開発から運営まで、米国の雑誌を参考にしつつ、すべて手探りでノウハウの構築を進めてきた。「チェーンストア経営について、人から教わったことはありません。誰よりも勉強してきましたから、自ら試行錯誤していくことが成功する近道だと信じていました」と飯田社長は言う。
経営を人任せにしていた
同社の経営戦略には飯田社長の独自性が強く反映されている。中でもオーケーを特徴づけているのがEDLPだ。同社が EDLPを価格政策の軸としたのは86年から。いったいなぜ、EDLPを導入しようと考えたのだろうか。
あるとき、飯田社長が自社の店舗を巡回していると、定価100円の商品を98円で販売していた。これに飯田社長はショックを受けた。同社の基本方針である「高品質・お買徳」が建前になっていると感じたからだ。
「経営を人任せにしていた。これでは駄目だと反省しました。ふだんから競合店の特売価格に負けないような売価に引き下げないと、お客さまから信頼されなくなると考え、思い切ってEDLPに舵を切ったのです」。86年以降、商品数を絞り込み、単品の販売数量を増やすことに力を入れるようになった。同年には従来の会社の基本方針「高品質・お買徳」に、「EDLP」を付け加えている。
こんなエピソードもある。終戦後に物価統制が敷かれる中、飯田社長は統制価格を上回る価格で販売する闇の業者が利益を得て、勢力を拡大していくのを目の当たりにしていた。食料不足の中、相手の懐具合を探りながら商売する闇市の販売方法には相当な嫌悪感を持つようになった。
「長い目で見れば正直な価格提示をしないと、いつかはお客さまから信頼されなくなる。父はつねに薄利多売でお客さまの信用を得て、長く商売を続けていくことが何より大切だと話していました。私もこの教えを守っているのです」。
EDLPは徹底しなければお客の支持を得られない
EDLPを始めた後、同社はお客の支持を獲得し、売上を順調に伸ばしていった。飯田社長が仕掛けたゲームチェンジが成功したのである。今でこそEDLPを謳う小売業が増えているが、うまくいっている企業は多くない。
なぜ、同社のEDLPがお客から支持されているのか。
それはEDLPを徹底させているからである。「EDLPと言いながら、都合のいいときに高くして、悪いときには安く売るのでは、EDLPは浸透しません。お客さまはよく見ていますから」。
EDLPを始めた当初、商品の仕入れ先から理解を得るのは大変だった。チラシを利用して価格の安さを訴求し、販売数量を増やすことで利益を確保しようとするのが当たり前だった時代だ。販売数量が見込めるかどうかもわからないのに、つねに低価格で販売するEDLPに対し、仕入先の多くは理解を示さなかった。協力を得られない場合、同社では自らの利益を削り、EDLPを徹底させた。
「これは私の信念。受け入れていただけない仕入れ先があれば自らの利益を削るか、新たな仕入れ先を開拓するほかなかった」。こうした努力が実を結び、消費者の中に「オーケーはいつでも安い」というイメージを植え付けることに成功したのである。
価格とともに、商品そのものに対して「正直さ」を打ち出していることも、お客から支持を受ける理由のひとつとなっている。
たとえば売場随所にみられる「オネストカード」だ。「相場が高騰しておりまして、次回の買付分から値上げしなければならなくなりました。値上がり前にお求めくださいますと、お得です」「本日販売しておりますスイカは、日照不足のため糖度が不足しています。お差し支え無ければ、他の商品のご利用をお薦めします」。商品の状態をわかりやすく、マイナスの情報も正直に伝えることで、お客の信頼を得ている。
EDLPを実現させるためには、EDLC(エブリデイ・ロー・コスト)体制の構築が必要となるが、同社では店舗の従業員を無理に減らすことはない。「SMの運営は人手がかかるものです。従業員が減るとお客さまへのサービスが行き渡らなくなります。だから売上が伸びれば従業員はたくさん投入しても構わない。逆に売上の少ない店は調整する必要がありますが、最初から店舗の売上がどれくらいになるのか事前に把握はできません。売上は先読みできないものですから、その都度調整していくのです」。
売上が低調の店舗があれば、経費率が割高の店舗もある。改善するためには上から指示を押しつけるのではなく、自分たちで考え、解決させるのが飯田流だ。
「人間はどこかで修正しようという気持ちが働くものです。ですから社員にはヒントを与えたら放っておきます。自分たちで修正を加えている店舗では、その努力が自然と売上に反映されていきます。自ら考え、解決していくうちに競争力のある店舗になるのです」。
投資効果を綿密に計算し最新技術を積極的に導入
EDLPを大胆に推し進める一方、店舗運営においては最先端の技術を次々に導入していることもオーケーの特徴だ。そのひとつが、コンピュータである。同社が最初にコンピュータによる商品管理システムを取り入れたのは、実に64年までさかのぼる。当時はコンピュータを導入する小売業はまだ少なかった。
早くから飯田社長がコンピュータに着目したのには理由がある。飯田社長の長兄の友人に「日本のコンピュータ産業の父」と呼ばれた富士通の元専務である池田敏雄氏がいたのだ。飯田社長は池田氏が話すコンピュータの可能性に感銘を受け、コンピュータの早期導入を決めたのである。
会社の規模拡大に合わせるように、自前でシステムの開発を進めてきた。02年9月には自動発注システムを試験的に稼働させた。03年10月には日配食品に、04年12月にはグロサリーに自動発注システムを導入している。これにより商品回転率が向上し、廃棄ロスは減少した。
さらに過去の実績に基づき、店舗ごとに販売数量を予測して棚割を組み立てる自動棚割の仕組みを07年から導入。自動発注システムと連動させることで、発注や補充作業量の軽減を図っている。
店舗設備の面では、03年からCAS(セル・アライブ・システム)仕様の冷凍庫を導入。CASとは、食品の水分子を動かし、細胞組織を壊さずに凍結することができる革新的な冷凍技術だ。解凍しても本来の旨みや食感を維持することが可能になった。
CAS仕様の冷凍庫は全店に導入されており、設備投資額は店舗当たり約8000万円だ。「生鮮食品は鮮度で決まる。ハードを刷新するだけで鮮度が改善するなら安い投資額」と飯田社長は話す。
実際、 CAS導入により消費期限が延びるとともに、廃棄ロスが減少。今後は海産物だけではなく、農産物や畜産物でもCASで凍結した商品を増やしていく考えだ。投資額以上のリターンを十分に計算した設備投資を行っているのである。
同社は経営目標として04年に経常総経費率(経常総経費=販売管理費に株式交付費などを調整して含めた数値)15%台、経常利益率4%台を掲げていたが、05年3月期にその目標を達成。11年3月期は経常総経費率14.78%、経常利益率5.64%という実績を残している。
コンピュータを活用した新システムや、革新的な店舗設備の導入など積極的な先行投資を、経営数値の改善へと着実に結び付けている。E D L Pの実現に不可欠な、 EDLC体制を着々と築き上げてきたのである。「まだ公表はできませんが、新しいことを計画しているので楽しみにしていてください」と話す飯田社長のEDLP追求への意欲は衰えを知らないようだ。
今後、少子高齢化が進み、人口減少社会に突入するなど、従来とは異なる社会環境への対応に追われる小売業界。オーケーではどのような対応策を考えているのだろうか。
「わが社だけで社会情勢の変化に対応できることには限りがあります。力の及ばないことを考えてもしようがない。たとえ人口が減少していくとしても、消費がゼロになるわけではありません。限られたパイの中でも、売上を拡大できる余地はまだまだたくさんあります。また、今でも自分でカートを引いて買物すると、この売場は不便だとか、この商品はよくないと感じることが多々ありますから、これを一つひとつ改善していきます」。