1943年(昭和18年)生まれの竹市靖公さんが喫茶店「トミヤマ」を始めたのは26歳の時だ。繁盛店ではあったが所詮は小さな喫茶店。「これでは、従業員に年収500万円を支払うことはできないな」と考え、一念発起。78年に開業したのがステーキハウスの「ブロンコ」、後の「ブロンコビリー」(愛知県/竹市克弘社長)である。
BSE騒動がきっかけで倒産の危機へ
順風満帆だった。85年には「炭焼き」と「サラダバー」を導入して、一気に人気を博した。93年には多店化に備え、愛知県春日井市にコミサリー(自社加工工場)を開設。95年には商号を現在の「ブロンコビリー」に変更。「炭焼き」「サラダバー」という2つの武器を携えて快進撃を続けた。
しかし、あることを端緒に躓くことになる。「200店舗くらいまで規模を拡大したいと考え、2000年に低価格路線への変更を決め、手間とコストのかかることは極力やめました。『炭焼き』を鉄板に変え、『サラダバー』を廃止して、大量出店に専心するように舵を切ったのです」(竹市さん)。ブロンコビリーは低価格路線にまっしぐら。1700円あった客単価を970円にまで引き下げ出店を重ね、店舗数は40に達した。
ところがそこで降って湧いたように2001年、BSE(牛海面状脳症)問題が勃発する。売上高53億円の企業は5億円以上の赤字を計上し、有利子負債は38億円――最大のピンチに直面し、倒産の危機を迎えた。「もう一度自分の商売の原点を考え直さなければいけない」。
ブロンコビリーにしかない価値を磨く
失意のどん底の中で、たまたまつけていたラジオの声にはっとさせられた。
「番組では『今年なくなって腹が立つことランキング』という企画をやっていたのです。その第2位にランクインされていたのが『ブロンコビリーのサラダバー』でした」(竹市さん)。
「なんだか感動してしまってね。温かい風に吹かれたような気持ちになった。同時にお客さまの期待にお応えしなければいけないという熱い思いがこみ上げてきました」。
この経験を通して、「ブロンコビリーの得意なことをやろう、好きなことをやろう、高い評価をして頂けることをやろう」という考えの軸が定まり、覚悟が決まった。それからは、お客に価値を感じてもらえる「ご馳走レストラン」として、世界中から食材を求めて集め、日本中から旬の食材を探し、店舗では手間隙かけておいしい料理や気持ちの良いサービス、清潔で楽しい店づくりに徹底的にこだわった。
04年から、再びオープンキッチンによる「炭焼き」「大かまど(で炊くご飯)」「サラダバー」の導入改装を開始し、05年4月には全店舗のリモデルを終えた。その後のブロンコビリーは、上記3つの武器を差別化要素として、さらに磨きこんだ。07年にジャスダック、2011年に東証・名証二部に上場し、2012年には東証・名証一部に上場。21年12月末時点で130店舗を展開するまでに成長した。
若手には「失敗権」を
現在はブロンコビリーの相談役となった竹市さんは、自分の経験を踏まえ「若手社員には失敗する権利がある」と力をこめる。「だから、今の社長を含め、若手には『失敗権』を与えたい」。難しいことに挑戦して、失敗するならそれもかまわないという考えだ。
「何も失敗しないということは、そもそも挑戦していないということ。社長の下で、みんなが将来を見つめながら挑戦してほしいと考えています」。
さて、2021年1月14日、ブロンコビリーは、2021年12月期の決算を発表した。売上高157億7300万円(対前期比8.7%減)、営業損失4800万円、経常利益は15億4900万円(同417.8%増)。コロナ禍で依然厳しい状況にあることは間違いない。しかしそんな中にあっても、厚切りとんかつとおばんざいを提供する新業態「とんかつ かつひろ」の開発や、自社アプリ「ブロンコマイスタークラブ」の会員獲得などに努め、外食産業の意義と価値を再確認して打ち出したコンセプト「ご馳走カンパニー」の実現に向けて奮闘を繰り返している。