メニュー

元ジャスコ社長、故・二木英徳さんがイオン幹部にかけた言葉

2022年8月10日、創業時からイオン(千葉県/吉田昭夫社長)を育て上げてきた名経営者の1人、二木英徳【ふたぎ・ひでのり】名誉相談役が老衰のため亡くなった。85歳だった。

 

ジャスコ社長に就任したころの二木英徳氏

“播磨の今太閤”の二男として

 二木さんは1936年、兵庫県姫路市の生まれ。兵庫県立姫路西校から東京大学経済学部に入学。卒業後の1960年、実父で“播磨の今太閤”と言われた故・二木一一【ふたぎ・かずいち】氏が1937年に興したフタギ洋品店(1949年にフタギとして法人化)に入社する。

 1967年──。

 年商68億円のフタギの二木一一氏と同100億円超の岡田屋の岡田卓也氏(現:イオン名誉相談役)は「東レサークル」のセミナーで隣同士となり意気投合。岡田氏が「合併」と書いた一枚の紙きれを手渡したことから両社は企業統合に動き出す。

 以下は、流通評論家、故・吉田貞雄氏の記事(『CHAIN STORE AGE NEWS』紙1984年5月21日号)からの引用である。

 ダイエーと西友にあらずんば、チェーンにあらずといわれていたころである。岡田(卓也)氏は姫路のフタギの本部までたずねて説得した。
 「息子(=英徳氏)にもよく説明してやってほしい」と二木一一氏が頼んだからである。
 二木一一氏の二男、英徳氏は昭和35年3月東大経済学部を卒業すると、同年フタギに入社し、すでに常務取締役の要職にあった。父の苦労と、その父につくす母かつみを見て育った英徳氏は、生涯、父につくすと誓っていたのである。
 合併を決断する前夜、父は息子英徳氏にたずねた。
 「お前は、この合併に賛成してくれるか」と。
 「はい。父さんが卓也さんを信頼していれば…」と答える息子。「心から信頼している」「それならOK!ですよ」。

 また、岡田卓也氏は、自著『再び「大黒柱に車をつける」とき』(NTT出版)の中で「(二木一一氏の)人間的魅力と、商人としての姿勢に深く共鳴していた私は合併を決意し、68年5月、業務提携を発表した」と振り返っている。

 この提携を知ったシロ(大阪府)も参加を表明。3社の共同出資によって1969年、本部・共同仕入れ機構である(旧)ジャスコ(日本ユナイテッド・チェーン株式会社:Japan United Stores Company)が設立。1970年3月には、岡田屋がフタギ、オカダヤチェーン、カワムラ、(旧)ジャスコを合併し大同団結。同年4月、岡田屋はジャスコに社名を変更、この時、二木英徳さんは取締役に就任した。

「死にたくなかったら、在職中に次の目標を持ちなさい」

 その後の二木さんの経歴は華やかだ。

 1983年、ジャスコ代表取締役副社長に就任。1984年、ジャスコ誕生 15 周年時には、47歳でジャスコ社長に就任。岡田卓也会長、二木英徳社長による新体制を発足させ、“永久革命”に取り組んだ。

 1996年、ジャスコ代表取締役副会長就任、この間、1995年には日本チェーンストア協会会長も兼任している。2000年にイオン取締役相談役、2003年に同社名誉相談役に就いた。

 根っから商売人。バリバリと仕事をこなした“仕事一筋人間”だった。

 だから、21世紀に突入したころに、実務から離れるに当たっては胸が張り裂けるばかりに苦しんだという。大好きだった実務ができないとなれば、もはや社内では引退同然。名誉相談役というのは、その名の通りの名誉職だったからだ。

 苦しみ抜いた二木さんは、1993年から会長職を務めていた日本体操協会での活動に打ち込み始める。

 その頃、“体操ニッポン”は復活の途上にあった。

 2004年のアテネ五輪で日本男子が体操(団体)で29年ぶりに金メダルを奪取。2008年の北京五輪でも、内村航平選手が個人総合で銀メダル、男子団体総合でも銀メダルを獲得した。

 さらに2009年10月に開催された世界体操競技選手権(於ロンドン)において、男子では内村航平選手が個人総合で金メダル、平行棒で田中和仁選手が銅メダルに輝く。女子では鶴見虹子選手が個人総合で銅メダル、段違い平行棒で銀メダルを獲得し、再び「体操 ニッポン」の時代が到来した。

 その表彰式で、選手たちに隠れる形で破顔一笑、万歳を繰り返していたのは、二木さんだ。二木さんは、実務を離れた際に、次の目標を日本体操の普及、発展に据えたのだ。

 ゼロからのスタートだったが、2001年から2021年までは日本体操協会会長、2021年からは日本体操協会名誉会長を務めていた。

 二木さんは、こうした自分の経験を踏まえて、退職を控えたイオンの幹部を前に折あるごとに「あんた、このままいくと定年後にはおかしくなって死んでしまうよ。死にたくなかったら、在職中に次の目標を持ちなさい」と語りかけ、「不思議なもので、新しい目標を持ち、達成に専心していると、今抱えている仕事の魅力はだんだんと萎んでいくものなんだよ」と励ましていた。

 そして、二木さんは、その言葉通りの人生を全うした。(合掌)