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#4 ユニー“中興の祖” 家田美智雄さん、社長としてユニーに復帰

ユニーの“中興の祖”の1人である故家田美智雄さんという流通業界最強のサラリーマン経営者を全6回で振り返る連載・小売業サラリーマン太閤記。第4回目は、親会社ユニーが大企業病に陥って苦戦するなか、次の社長として家田さんに白羽の矢が立つ。そこで、家田さんが行ったこととは!?

元凶はアピタの高級化志向

 家田さんが食品スーパー業界の寵児として業界紙誌に盛んに取り上げられるようになっていたころ、親会社ユニーは風雲急を告げていた。

 元凶は、昭和60年(1985年)、「多角化、国際化、高度化」を謳い文句に“ポストGMS(総合スーパー)”の切り札として登場した「アピタ」の高級化志向にあった。

 もともと「アピタ」は、衣料品をいかに上手に販売していくかを追求するところからスタートしている。しかし、バブル景気に流されるまま、高級品や超高級品を扱うようになり、コストばかりがどんどん積み増しされていった。コンサルタントの指示を真に受け、店内に大理石を敷き詰めたり、使い勝手の悪い円い柱を設置したりと、“快適な買い物空間”を実現すべく多額の投資が繰り返された。

 一枚板でつくられたアクセサリー陳列什器を見た時には、さすがの西川社長(当時)もコスト感覚のなさに激怒したという。

  だが、そのころは、社内に官僚主義がはびこっており、「モノ言えば唇寒し」になるかもしれないという疑心暗鬼をすべての従業員が抱き、声を上げて真っ向から、高級路線を否定する者はいなかった。 

 自由な発言ができない、大企業病が蔓延していたのだ。従業員の誰もがユニーが傾いてきたことを認識していたが、誰もが具体的には動き出せずにいた。

 

  売上高5000億円強規模の合併企業には、1991年時点で、取締役25人、常勤監査役2人、相談役2人が名を連ねていた。

 けれども、それら経営陣の危機意識はあまりにも低かった。

 新店がオープンすると“背広族”なる黒い集団が売場を闊歩する。ユニー役員の面々だ。

 従業員が一生懸命働いているのを横目にスーツ姿でポケットに手を突っ込み、何人かの取り巻きを連れてそぞろ歩く。

 少し常識があれば、もっともしてはいけない行為の1つであることだと分かるのだが、「我関知せず」とばかりに、それぞれがバブル景気に浮かれ踊っていたのである。

  「浮かれ」という意味でのもっとも象徴的な出来事は、ユニー創立20周年記念(1991年〈平成3年〉)に開かれた「21世紀をにらんで」というイベントだ。ピーター・ドラッカー教授を招き、東京と名古屋とニューヨークを通信衛星で結び、米国在住で日本でも『パワーシフト』(フジテレビ出版)がベストセラーになっていたアルビン・トフラー教授と対談させた。

 「莫大なカネをつぎ込み、21世紀もにらんだのに(ユニーは)3年先が見えていなかった」。

 当時の手帳に家田さんは、「困るのは 浮きに浮かれた花見酒 あとの始末をする身にもなれ」と詠み、書き残している。

 

苛烈!家田さんが出した、ユニー社長就任の条件

ユニーに社長として復帰した家田さん

 ユニーの経営体制はさらに混乱を極めた。

 発端は1990年(平成2年)2月、西川社長は丸14年務めた社長の座を妹婿【いもうとむこ】の安井治雄副社長に譲ったことにある。自らは代表権のある会長に就き、ユニー本体の経営を安井社長が、グループ企業は西川会長が管掌することを意図した。安井氏は、入社年度では家田さんの1年先輩に当たる。

 だが、わずか1年3か月後の1991年5月、安井社長を副会長に、メーンバンクである東海銀行出身で入社8年目の武藤庸之助氏を新社長に据える人事が発表された。武藤社長は安井氏の5歳年長ということもあり、業界内外を驚かせるとともに、「ユニーは、いったいどうなっているんだ?」という疑念の目が向けられた。

 武藤社長体制下では、バブル崩壊の不運も重なり、16期連続で増収増益を繰り返してきたユニーに2期連続で減益を喫させてしまう。

 その結果、1993年(平成5年)5月、武藤社長はわずか1期2年で退任することになる。

 

  武藤社長退任の2か月前――。

 家田さんは、突然、西川俊男会長(当時)からユニー本部に呼び出された。話の中身は想像がついていた。

 会長室に入るやいなや、「社長として帰ってこい」と命令口調の声が飛んできた。

 実は前年にも復帰の話があったが、この時は立ち消えになっていた。

  ユーストア社長として“我が世の春”を謳歌していた家田さんは抵抗した。

「あんたが悪くしたのだから、あんたが再登板すべきだ」。

 ところが、西川会長は「そんなことはできない」の一点張りで、まったく聞く耳を持たない。

 しばし押し問答が繰り返された。家田さんは、長きにわたる付き合いゆえに、西川会長の胸の内はお見通しだった。

 だからこそ、「(この言い方の時は)逃げられない」と察し、覚悟を決めた。

「わかりました。やりましょう」。

 家田さんはうなずきながら、次の一手として、就任の条件を出した。

「もし社長をやるのであれば、代表取締役は1人にしてほしい。それと、いまの取締役は総退陣でお願いします」。

 西川会長は「すべて聞く」と言った。そこまで追い込まれていたのだ。

 実際、西川会長は代表権を返上、代表取締役は家田さん1人になり、その時23人いた取締役は9人が退任、1人が新任として加わり、15人体制になった。

  1993年5月、家田さんは社長としてユニーに復帰する。

「ポンポン船のような企業しか経験したことがないのに、ユニーのような大きな戦艦を任されてしまった」と家田さんは就任直後に感想を述べていた。その腹の内は「『もうダメだ』と諦めていた」と後日、振り返っている。

 それでも受け入れたのは、32年前に“食品の経験者”として西川会長に拾ってもらったという恩義にあった。社長就任会見では「西川に死ねと言われれば死ぬ」と発言している。

稲沢への“都落ち”

稲沢の本部はワンフロア 家田さんの席から全従業員が見渡せた

 子会社の社長が親会社の社長としてカムバックするサクセスストーリー。

 とはいえ、家田さんをすべて社員が手放しで歓迎したわけではない。

 ユーストアを創業以来14期連続で増収増益に導いた家田さんの経営手腕を評価はするものの、就任後にどんな打ち手を施すのかは不透明で社員は一様に戸惑っていたのだ。

「ユーストアで掃除をしろ、と自らもほうきを持ってうるさく言う社長がいることは知っていた。けれども、まるで別世界のように考えていた」とある社員が語っているように、16年の時を経て、小売業界の英雄はユニーの社内では忘れられた存在になっていた。

 それでも半分くらいの社員はメシア(救世主)を待望するように家田さんの復帰を歓迎した。

 

 古巣に戻ってみれば、変えなければいけないことは山ほどあった。

 前提条件は、「高コスト経営はありえない」ことだ。家田さんは、胸に刻み、落下傘で乗り込んだ。

 まず問題視したのは、名古屋駅前に構えていた本部と1800人に上る本部人員だった。年間6億円の家賃を支払っていた。

「本部は稲沢市に移転しよう」。家田さんは誰にも相談することなく1人で決めてしまう。

 夜討ちに来た新聞記者に漏らしたら、翌日の地方版の朝刊にでかでかと書かれた。

 役員たちは不安そうに「本当なんですか?」と聞きに来たけれども後の祭り。結果としてこの記事によって本社移転は全従業員に知れ渡ることになった。

  稲沢市には、広大な自社保有地があり、什器備品倉庫があり、配送センターがあった。

 家田さんの自宅のそばなのでちょっと顔を出してみると、倉庫には山のような什器や備品が置かれ、それらを修理しているという会社が間借りし事務所を開き、「通常なら10万円くらいかかる修理費を1万円でしているんだ」と社長がドカッと腰掛けていた。

「ああ、これじゃあダメだ」。

 家田さんは、すべての什器や備品を関連する業者にタダであげてしまった。

 一方、配送センターには約200人が働いており、衣料や雑貨などを扱っていた。しかし扱い金額は微々たるものだったので、すぐに専門業者への委託に切り替えた。

 

 倉庫の面積は2000坪。余剰スペースならうなるほどあった。

 家田さんは、ここに10億円を投じた。

 平屋建てで全部門が一望できる本部を建て、就任半年を待たずに移転させた。名古屋駅前の賃料を考えれば2年弱で採算がとれてしまう計算だ。

 ふつう、本部の移転は、「なかなかできない」というよりも「やらせてもらえない」ものである。しかし西川会長は認めた。このことを家田さんは、「我慢の西川、ヤケクソの家田」と自嘲していた。

 

 そのころ、東京にも豪華な事務所があった。地下鉄東西線の東陽町駅から徒歩7分にある「東京イースト21」の2フロアを借りていた。そこでは「生活創庫【せいかつそうこ】」という未来型GMS(総合スーパー)も展開していた。

 家田さんは、初訪問の際に「ビルの11階で富士山は見えるけど足元が見えていない」と皮肉を言い、即座に多額の違約金を支払い、撤収を決めた。

 スピード感をもって撤収を決められたのは、代表取締役は家田さん1人で全権限を握っていたからだ。「改革は、やるかやらないかの選択。やらなければ意味はない」。

人員を700人削減

 本部移転に当たっては、人員を1800人から1100人へと700人削減した。

 たとえば、これまでは会長・社長の周囲の部署は、秘書、広報、企画室など社員17人、パート社員1人の合計18人で構成されていた。これを社員3人、パート社員3人の6人に減員した。

「18人もいると本当の情報が何であるのかを誰も分からなくなってしまう。だから年中集まって会議をしなければいけない。でも社員を3人にしてしまうと会議のしようがない。立ち話ですんでしまうから」。

 秘書もパート社員にした。すると、「秘書は企業のトップシークレットに触れるからパート社員では無理です」と猛反対された。

 すぐさま反論した。「あんた、過去1年間で他人にしゃべってはならない機密って何かあったの?」。「小売業には特許とか秘密はほとんどない。店頭にすべて出してしまっているから」。「仮に俺が悪事を企んでいるなら箝口令を敷くけど、その時はあんたにも喋らんよ」。「機密が多い会社は悪いことをしているか、恥ずかしくて他人に言えないから隠しているだけ。全部オープンにしてしまえば何の問題もない」。

 家田さんには揺るぎない信念があった。

 経理財務部は社員75人とパート社員6人の81人を抱える大所帯だったが、これを社員15人、パート社員35人の50人にした。販売促進部は社員32人、パート社員3人の合計35人が在籍していたが社員5人、パート社員2人の7人体制になった。

 人員大異動の実施を前に家田さんは「君たちにも家族があるだろうが、そちらには迷惑をかけたくない。だから人員整理をしない代わりに大幅な異動をさせてほしい」と訴えた。

 そして削られた700人の本部社員は売上と利益の源泉である店舗に異動させた。

 実は、家田さんは、名古屋駅前から稲沢への“都落ち”によって、大半の女性社員は退職するだろうとあきらめていた。ただ、ユーストアでの経験があったので、その時にはパート社員で充足しようと腹をくくった。ところが移転してみれば、全ての女性社員が文句ひとつ言うことなく異動してきた。

「ほんとのことを言うと、本部を移転する時には、かなりの退職者が出るだろうと予想していた。けれども、1人としてまったく辞めない。うちの社員は辞表の書き方を知らないのでは…と本気で思った」。

 家田さん独特の褒め言葉だ。

 この大型人事異動によって、多くの人を受け入れた店舗は人員過剰になった。しかし家田さんはそれでよしとした。

「本部に多く人員がいてもどうにもならないが、売場なら掃除や商品陳列ぐらいはできる。本部でいくら頭を抱えて悩んでも何の解決にもならない」からだ。

  また人事異動に当たっては、自宅と職場の移動距離を縮める「職住接近」を重視した。従業員の通勤時間を削減し、身体的精神的負担を軽減するという効用はもちろん。交通費の削減にも大きく貢献した。さらには、“店格”というバカな価値基準もなくなる。

 今流で言えば「働き方改革」そのものだ。

  締めてみれば、この本部移転にともない、約25%に当たる2000人近い従業員を異動させている。

 

  名古屋駅前本部にあった立派なデスクやチェアはすべて叩き売り、普通の事務机のみを残し、本部移転を実施した。地位も役職も関係なく、すべての従業員の机と椅子を同等の質素なものにした。設置するロッカーは腰以上の高さのものを禁止、机の上にモノを置くことも禁止とした。

 ワンフロアの事務所なので、これによって家田さんの席から、全従業員が見渡せるようになった。

  社員に対してまず話したのは、リストラ(事業再構築)の「3欠く」についてだ。リストラは1つに「義理を欠くもの」、2つに対外的に「恥をかくもの」、3つに「情けを欠くもの」ということだ。

 例えば、組織再編で部の数を減らせば、部長が店長や副店長として降格になる。ここに情けをかけていては何もできない。

 いろいろ文句を言ってくる社員には、「俺が一番欲しいのはカネか辞表だ」と言い放った。ただしこんな深刻な話でもユーモアは忘れない。

 「カネand辞表じゃなくて、カネor辞表だよ」と。

 ここで言うカネとは売上をつくって利益を上げる正攻法でも可、自分の資産を売却して差し出すのも可、法律に抵触しない範囲でゼニを持ってこいとぶった。

 さらに、人員が余剰になったので新入社員の採用にも手を付けた。1993年4月には840人が入社しているが、翌年から数年間はゼロにした。

 

 「最初のメッセージが強烈だと利くんですね」。家田さんは笑いながら振り返っている。

 たとえば、ユニーの社長に就任してから迎えた1994年の春闘――。労働組合は「家田新体制に協力します。ベースアップは要求しません」と問わず語りで言ってきた。

「何を言っているんだ。そんなこと先に言われてしまったら、ベースダウンできないじゃないか」。本音なのか冗談なのか分からない。たぶんその両方なのだろうが、団体交渉の場はなごんだ。

 家田さんが電光石火で対策を打つのを見た従業員の心境には大きな変化が表れた。

 言行一致で言っていることの本質をコロコロ変えないリーダーに「ついていってみよう」という機運が生まれたのである。