「飽きっぽい」という性質は、学生であれば、まず評価されないものだ。
通知表に「飽きっぽい」と記された場合は、たいていはマイナス評価を意味する。
それとは逆に、ひとつのことに地道に専心集中するのは大事なことだ。
たとえば、その道一筋を極めた方の発言には、普遍性があり、ありとあらゆる世界に通じることが少なくない。米国映画で故・ピーター・セラーズ主演の『チャンス』(1979)のモチーフは、そんなところにあったと記憶する。
ただ、そのことを踏まえてあえて言うなら、「飽きっぽい」ことは、そこまで悪いことではない。
それというのも、かく言う私がとても「飽きっぽい」からである。
同じことを続けていると、変えたくなる。
雑誌の企画も同じような趣向のものが続いていると無性に嫌になってしまうのだ。
そんなことをある創業経営者に話してみると、次のように返ってきた。
「僕は生来、とても『飽きっぽい』んだ。同じ仕事を2年も続けると飽きてしまう。まして今の世は、長期継続成長するマーケットなど存在しないから、油田を掘っては移動してまた掘り、ということを繰り返さなければならない。だから変化する時代にあっては、『飽きっぽい』って素晴らしいことだと考えている。さすがにドメイン(戦略的事業領域)は変えないけれども、『飽きっぽい』ことは、自身の変化につながるからね」。
もっとも、「飽きっぽい」をひとつの道とするなら、この経営者は、「飽きっぽい道」を極めていることになる、という見方もできなくはない。