同級生を初めて失ったのは14歳の時だった。“バッケ”というあだ名の早坂君。天真爛漫で活発な子供だったが白血病であっけなく夭逝した。
バイク事故で死んだ高田君や工事現場のバイト先で事故死した岩田君、骨肉腫でなくなった青柳君…以後、高校を卒業するまでに同級生は1年に1人くらいの割合でいなくなっていった。けれども、それはどこか他人事であり、「運が悪いだけ」と見過ごすことができた。
ところが先日、前の会社で同期入社だったK君が48歳で死去した。
8月上旬に「具合が悪い」と言っていたと思ったら、10月に入ってあっけなく逝ってしまったのだという。がんだった。
同じ同級生でも今回の死の受け止め方は随分異なる。
「自分も普通に成人病で死ぬ年齢になった」という実感があるからだ。
人生80年時代であることを考慮すれば、「まだまだ関係ない」と自分に言い聞かせることはできなくない。
しかし、これまでに経験したことがないような痛みや症状が身体のどこかに出るたびに、ビクビクしている自分がいることも事実だ。同期の訃報は、そんな動揺をより強いモノにする。
哲学者の三木清は『人生論ノート』の中で「近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。以前はあんなに死の恐怖について考へ、また書いた私ではあるが。思ひがけなく來る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである」(原文ママ)と書いていたが、この訃報に触れ、少し同じ感傷を味わった。