昭和22年――。
19歳の時に父親から言われて、株の売買にかかわっていた少年がいる。
昭和20年に海軍兵学校を卒業すると、終戦によってなくなった行くあてを探すでもなく、父親の経営する漆器卸売店に入社していた。
父親は、土日以外の毎日、毎朝、兜町に行かせ株式の売買に携わらせた。その朝の相場の傾向を電話で連絡させると、父親は、動きを睨みながら、売り買いの指示を細かく出した。少年からの報告にうなずくだけで、何もしない日もあった。
父親の仕事を手伝いながらの兜町通いなので、リヤカーを引きながら周辺をうろつくことが多かった。道行く人たちからは、奇異な目で見られたことをいまも忘れていない。
それから2年が経過した21歳のある日のこと。父親は少年に尋ねた。
「お前が兜町通いを始めてからいくら儲かった?」。
少年は答えた。
「わずかですけど黒字です」。
「そうか。ちょうど金利相当だな」。父親は言った。
「よく覚えておけよ。株なんて所詮はこんなもの。儲からないものなんだ。こんなに一生懸命、考え、売買しても、銀行に預けておくのと同じくらいの稼ぎしかない。いいか。実業の方がよっぽどいいんだぞ」。
父親は、少年に2年の歳月を費やして、たったそれだけのことを教えた。
さらに6年後――。
青年になった少年は、父親から500万円を借金して、食品スーパーマーケットを創業することを決めた。
食品スーパーマーケットの名前はオーケー。少年の名前は、飯田勧。オーケーの創業者であり、社長であるその人だ。