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増田明美さんと聞いて何を連想するだろうか?

 増田明美さんと聞いて何を連想するだろうか?

 

 ほとんどの方は、「マラソン解説者」を思い浮かべるのではないだろうか?

 まさにその通りで、増田さんは、「マラソン解説者」の草分け。事前の綿密な選手取材、選手時代の経験を織り込み、冷静でかつ柔らかな語り口と安定感で抜群の存在感を見せている。

 

 一方、40歳過ぎの方は、増田さんの名前を耳にしたとき、「陸上競技者」「アスリート」としての姿を思い出すかもしれない。

 

 天才ランナーだった。成田高校(千葉県)3年生の時には、ロードレースの10㎞、20㎞、トラックレースの3000m、5000m、1万mの日本記録を持っていた。当時の男子マラソンのエースに重ねて、「女瀬古」と言われていた時期もある。

 初マラソンを2時間36分34秒の日本最高記録(当時)で優勝。そこから先は、ただただ素晴らしい競技者生活が待っているはずだった。

 

 ところが高校卒業後に入社した川崎製鉄千葉(現:JEFスチール)時代から風向きは変わる。

 83年1月の大阪女子マラソン(現:大阪国際女子マラソン)では序盤戦で意識を失って棄権。同じ年の9月にアメリカで2時間30分30秒の日本最高記録を出すも、11月に出場予定だった東京国際女子マラソンを欠場。翌年1月に、ロサンゼルス五輪(84年)代表の座を賭けて臨んだ大阪女子マラソンではゴール寸前でカトリン・ドーレ(東独)選手の逆転を許し、代表の座をつかむものの、勝負弱さを危惧された。

 

 その予感は的中。ロス五輪の本番でも序盤戦で途中棄権してしまう。

 ライバルだったもうひとりの日本代表の佐々木七恵選手は19位で完走。スイスのガブリエラ・アンデルセン選手が脱水症状の中で夢遊病患者のようになりながらも、完走したことと比較され、帰国後には大バッシングを受けた。

 そのことに耐えられなかったのだろう。ロス五輪後に川崎製鉄を退社、引退してしまう。

 

 その後、競技に復帰したものの、かつての栄光の日々を取り返すことは二度となかった。

 

 もうこれで増田さんは終わりだと誰もが思った。

 ところが冒頭のように「マラソン解説者」として、見事な復活を果たし、いまでは比類なきタレントとしてオンリーワンの地位を築いている。

 もはや、すごい選手であったことや大きな挫折を経験していることなど誰も覚えていない。

 

 増田さんが、そこにたどり着くまでには、大変な苦労をされたのだろう。

 しかし、増田さんの活躍は、最悪の挫折を味わい、たとえ再起不能になったとしても、復活できるチャンスはまだまだあることを示唆している。

 

 人生、1度や2度の失敗は気にすることはない。

 浪人もよし、就職浪人もよし、まだまだ崖っぷちには、ほど遠いということを、この季節に想う。