私たちは、世の中の変化を見ながら、最も簡単に「ブランド」を作ろうと考える。だが、こうしたプロセスから生み出される「ブランド」は、そろそろ名称を変える時期にきている。その理由について説明するとともに、Z世代に対する誤解が生む悲劇について語ろうと思う。
「ブランド」とはそもそも残酷な
「区別」するためのもの
そもそも「ブランド」とは、極めて残酷で非情なものである。わかりやすくいうと、自分と相手を分け隔てるための手段である。
例えばイギリスでは、話し言葉のアクセントだけで、その人が上流階級か中産階級か、はたまたそれ以下なのかを区別するようだ。また国際線の飛行機に乗れば、ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミークラスと3階層にシートが分かれており、その違いは単に企業の交通費だけでなく、明確にそのシートに乗る人を区別している。だから、会社の社長がエコノミークラスに乗ると、仮にビジネスクラスの方が何らかの理由で安かったとしても、組織の中で上司以上のシートに乗ることは許されないことが多い。私も、幾度も「CxOがエコノミーで来るのだから、ビジネスには乗れません」と、言われたものだった。
だからこれは、単にコストの問題だけではなく、人を区別する世界の常識なのだ。そしてブランドは、「着ているもので、自分とその他の違いを表す手段」として欧州で作られた。
古い話となるが、映画「タイタニック」では、由緒正しい家柄に育ったご婦人達のお茶のみ話に、いわゆる「成り金」婦人が仲間に入れてもらえないシーンがあった。いくらお金を持っていようと、そして、いくら台所が火の車でも、血統がその人のクラス・階層を決めるのがイギリスの常識だったという一幕だった。
では、日本人にとってのブランドとは何かを、服の観点から考えるとどうなるだろうか。
「ラルフローレン」と「ユニクロ」が同じである理由
バブル時代、日本人に世論調査を行えば、必ず返ってくる答えが「自分は中流の上だ」というものだったことを覚えていらっしゃるだろうだろうか。50代以上の方であれば、「ああ、そういうこともあったな」と思い出すだろう。
当時、日本を席巻したのは「ラルフ・ローレン」だった。当時の「ラルフ・ローレン」のコンセプトは「ちょっと上質な生活」。当時の日本人の相当数の意識に合致していた、いわば、日本人の国民服だったわけだ。西武百貨店でラルフローレンの靴下やランチョンマット、バスタオルを買って詰め合わせ、西武百貨店ののし紙をつけて送れば問題ない。当時、ポロ競技のマークを胸に付けたポロシャツを着ていた人は山のように生息していた。
しかし、あれから30年。(1990年をアパレル絶頂期と定義)日本人は先進国で最も貧しい国となった。豊かな生活どころか、今後街には失業者が山のように増える可能性もある。こうした時代の変化の中で登場したユニクロには、二つの差別優位性があった。一つは、圧倒的コスパ、もう一つは、デコラティブな装飾を排した、流行に左右されないベーシック衣料品ということだ。
経済が停滞し、景気も良くなければ、人は衣料品にお金を使っている場合ではない。できるだけ着回しが良く、お金をかけず上質なものを数年着る。消費者はSDGsからこうした行動をとっているのでなく、服にかけるお金がないから結果的にこのような行動をしているというのが私の見方である。
「衣料品は、社会背景の鏡」。これは、私の分析の根幹をなすものであり、「世情」から販売戦略を考えなければならない。今のようにビジネスモデル論やデジタル技術から競争優位を語ったとしても、出てくるプロダクトは、どこまでいっても所詮は「服」だ。服そのもののイノベーション変数は価格以外にないし、その購買プロセスが超ハイテク技術を活用していても、所詮はプロセスに過ぎず、衣料品そのものではないのだ。
こうした極めてシンプルな事実を、我々は忘れているのではないだろうか。
いずれにせよ、あの時のラルフローレンは日本人そのものであった。同様に今のユニクロは日本人そのものなのである。言い換えれば、ラルフローレンはユニクロだったのである。
しかし、そのユニクロでさえ、買い替えサイクルが長期になり、できるだけコストセービングをしたい消費者は、衣料品を二次流通で購買するようになってきた。例えば、11月12日に最後の販売を行った+Jは、これがファーストリテイリングか、と思うほど高価な衣料品で、おいそれと買える値段ではなかった。
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「Z世代は環境消費をする」は正しい分析か
一方、この期間、技術進化は止まるところを知らず、当時のスーパーコンピュータ並みのスマホを誰もが手に持つようになった。Z世代と呼ばれるデジタルネイティブが次の10年の消費の中心となる。
だが、私たちグレイヘアたちは、例のごとく誤った分析をしているように思う。私たちは、どうしてもビジネスモデル論や技術から販売戦略を考える、いわゆるプロダクト・アウト発想を長年批判しながらも、未だにプロダクト・アウトでしかものを語っていない。例えば、どこにいっても典型的な言葉・発言に「Z世代は、環境意識が高い(ため、SDGs的消費購買をする)というものがある。
まず、Z世代といっても下は10代から上は20代。もっと具体的に言えば、小中学生と大学生、新社会人などが対象となっており、消費行動は全く違う。Z世代が環境意識が高いというのは、最近になって「学校教育」で、SDGsについての授業が増えてきたことが理由だ。特に高学歴と言われる有名大学の富裕層大学生達は、確かに環境意識をピュアに自分ごとと考え、また、具体的に消費行動する余裕も出てくるだろうと思う。しかし、小中学生、高校生や奨学金などで大学に通う苦学生が、環境コストを必要コストと考え、私たち人類の将来のために消費を工夫しているとは全く思えない。
あらゆる調査をネットで調べても、確かに「知識」としては、私たちグレイヘアの若い時代と比較にならないほどZ世代はSDGsについて知っている。だが、実際の購買行動は、小中学生は「カワイイ」と「お買い得」が最も重要な購買動機(Key buying factor)である。環境意識と購買動機の関連性について、論理的整合性を持って分析しているものは見当たらなかった。だから圧倒的な低価格で素性の知らない商品を販売しまくる中国のモンスター企業Sheinが勢力を拡大していても、何の不思議もないのだ。
確かに、環境破壊が進み人類の生存さえ脅かすほどになってきた今、将来の消費者は自分達と違って、環境のため人類のために望ましい購買行動をとるだろうという性善説に立ちたい気持ちはわからないでもない。だが、そうなる因果関係が不明瞭な帰結に期待することは、希望と現実を混同した神頼みと何ら違いはない。ましてや、それを盲目的に信じ、新ブランドと称して大きな投資を行うことも大きなリスクだと私は思う。
私は学校教育を批判しているわけではない。前回のエルメスアーカイブの隣には、環境インフルエンサーとも言えるファッションモデルが自社ブランドを立ち上げ、インスタなどでファンを呼び込んでいた。だが、これあくまでも例外である
残念だが、世代はどうあれ人の本質はそれほど変わらない。消費行動とは、我々消費者を取り巻く社会環境や所得、そして、社会の未来の展望と相関性があり、そのような本質的な課題解決をしなければ座学は机上の学問で終わってしまうのは、倫理や道徳の授業と同じである。私たちが幸せになるためには一定の経済的背景が必要であり、それは産業政策と深い関係があるというのが本日の趣旨である。
プロフィール
河合 拓(事業再生コンサルタント/ターンアラウンドマネージャー)