7月8日、安倍晋三元首相が遊説中に自家製銃で狙撃され、他界されました。日本という国で、このような事件が起きたことに衝撃を感じ、平和ボケした自分自身の頭を殴られた気がしました。安倍元首相についていえば、彼の政策は賛否両論あれど、私は、安倍元首相ほど日本のことを考え、また、実際に考えている政策を実行に移し、米国のみならずロシア、中国、そして北朝鮮など主義主張に関係なく日本という国のプレゼンスを世界に知らしめた方はいない希有な日本を代表する方と尊敬していました。日本人として、最も大事な政治家を失った哀しみを感じるとともに、ご冥福を祈ります。
さて前回は「新産業論第1回」として、日本の基幹産業であった繊維産業(アパレルでない)について、海外から資源を輸入し国内加工し海外に売るという政策に商社が中心的役割として絡み、99.7%がSME (中小企業)である日本の産業のまとめ役となることで、「日本株式会社」としての産業効率をあげ、戦後奇跡の復活をとげた立役者になった様を解説した。総合商社とは、日本の産業ポートフォリオそのものであり、財閥系と呼ばれる三井物産、三菱商事、住友商事の利益のほとんどが資源である。さらに、日本は教育制度をイギリスから導入し、素直で従順な金太郎飴を量産し、皆が同じことを真面目にコツコツやる国民を1億人つくったことも付け加えておきたい。結果的に、この人口ボーナスは、人口と消費人口の両方を大きくし、適切な公共事業により日本の経済力を高めていった。本日は、「新産業論第2回」として、商社がOEM(相手先ブランド名製造)に力を注ぎ、凋落してゆく課程を解説してゆく。
商社OEMの進化と凋落
日本構造改革のトリガーとなったのは「プラザ合意」だ。「資源を輸入し、世界へ加工品を輸出する」という産業政策がうまく行き続けたのは、「円安」が背景にあったからだった。プラザ合意とは1985年9月22日米国ニューヨークのプラザホテルで開かれ、G5の大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が合意した為替レート安定化策のことを言うが、現実は、極端に安い日本の円を円高誘導するという各国のもくろみがあったようだ。その後、世界一となった金持ち国家日本は内需に舵を振り、商社は繊維の輸出から繊維製品の輸入に舵を振った。これが、OEMビジネスの始まりだ。
当時商社は、日本の工場をアパレルに紹介し、アパレル企業が日本の工場と直接話をするが、お金だけは商社を通す、いわゆる「通し口銭」と呼ばれる中間流通が一般的だった。しかし、商社はさらに利益を上げるため、日本の生産工場を中国に持ち込んだ。当時、「中国人の給与は日本人の1/20。中国と仕事をすれば山のように儲かる」と先輩から耳にたこができるほど聞かされた。
今から30年前、共産主義国だった中国と日本が直接貿易をすることはとても難しかった。一例をいえば、中国には第一ボーダー、第二ボーダーがあり、経済特区と特区外とを隔てる第二ボーダーを超えることは私のような外国人には極めて難しかった。
そこで、ユニークな立ち位置で活躍したのが、当時まだイギリス領だった香港だ。
イギリス領である香港は、資本主義国家として資本主義国との自由に貿易ができると同時に、中国広東省トンガン地区(繊維縫製工場クラスター)との窓口であり、比較的自由に中国と物流と商流が組める。つまり、香港を通せば、中国の奥地にある安い労働力を自由に使うことができた。当然、韓国、台湾などでも生産をしていたが、それら国の人件費はどんどん上がっており、その一方で中国という巨大な国のリソースは無限大だった。奥へ、奥へと行けば安い労働力はいくらでもあり、「世界の工場」として君臨。香港は香港で、「戦略的中間国家(実際は地域)」として、大きく経済発展していった。そうしたなか日本の縫製工場は、日本を捨て、香港で起業をしていった。「日本人は海外でマネタイズするのが苦手」という論調は嘘で、当時のは侍(さむらい)は世界に打って出ていったのである。
中国生産は、アパレルと商社に大きな利益をもたらした。当時、マーケットは「DCブーム」で、日本人がアパレル製品を百貨店で高額で買ってくれた。そのため、日本の商社は「百貨店アパレル」に集中し、最高利益を更新し続けた。
当時、貿易は難解な業務だったということも商社の参入障壁となった。各国は外貨(=ドル通貨)を稼ぐため、日本では外為法という日本円の厳しい管理があった。私は、もともと貿易がやりたくて商社に入ったので、誰にも負けないほど勉強し、国際間取引や為替取引を導入し、次々とOEM生産と三国間取引や四国間取引など、極めて難解な実務を組み合わせた取引を実現していった。例えば、イタリアから素材を中国の工場に投入し、委託加工して輸入する取引を組み立てた。例えば、アルパカは、日本から飛行機でいけば一週間以上かかる南米から、三国間取引で世界の工場に自由に投入していった。
当時、米国有名ブランドが香港に置いた支店が作ったものを一目見ただけで、商社マンは、「どこの国の素材か」「どのように作ったのか」を言い当て、その商品の1/3のFOB価格で供給するほど、商社の「グローバル最適調達」は凄まじかった。製品の松竹梅とブランドの顔が持つ匂いで、適切な素材、適切な産地、適切な生産工場を選び、活用することができたのである。
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商社凋落の引き金をひいたユニクロ
このように、商社と百貨店、百貨店アパレルはバブル崩壊後でも「我が世の春」を謳歌していたのだが、突然襲ったのが1998年からはじまったユニクロの「フリースブーム」だった。社会現象にまでなった「フリースブーム」だったが、商社が、この事実とまともに向き合わなかったことが、商社凋落の始まりだったように思う。当時、誰に聞いても、「あんな安ものはロードサイドで売るべきものだ。我々の仕事じゃない」と言い捨てていたものだった。
しかし、ファーストリテイリングは確実にゲームチェンジを行っていた。彼らの考えを要約すると、「服は所詮は部品であり、ベーシックで高いコスパの商品を消費者は求めている。それは、高所得者でも変わらない」、というものだった。私は、当時の繊研新聞に掲載された柳井正氏のインタビューをみて、「この人はやがてカシミヤも扱いだし、高級ブランドも傘下にいれるだろう」と当時から予測し、それが産業崩壊のトリガーになると思った。
余談ながら、私が「ブランドで競争する技術」を書いたのは、日本のアパレルはファーストリテイリングに完膚なきまでにたたきのめされ、当時のブランドとはとても言えない代物だった「ブランド」を、本物にする以外に、産業が生き残る道はないという未来へのメッセージだった。しかし、産業界は動かなかった。相変わらず、百貨店アパレルのOEMを続け、大倉商事、イトマンと、二度も破綻の目に合いながら、まだ、商社繊維部は永続的に存続すると思考停止に陥っていたように思う。
ゲームチェンジャー、柳井正
柳井正氏のゲームチェンジは見事だった。当時、あちこちにユニクロの分析を投稿した私に投げられた批判は「しまむらの話がない」「みながユニクロになるはずがない」だったが、これらの私への批判は的外れであったことは時代が証明している。明らかに「しまむら」と「ユニクロ」では、世界的名声やブランド力、そして、売上なども全く違う。ファーストリテイリング は、日本市場で一兆円の売上を稼ぎ、さらに、有名ブランドとコラボし、さらに、ユニクロに続いてg.u. が、すでにファッション領域に浸食してきている。この、「鈍感さ」こそ、アパレル産業が「オワコン」と呼ばれる原因だと私は思う。
会社を辞めた私は、日本中のあらゆる商社に出入りし、また、数年間商社繊維部門の立て直しに奔放した。そこでみたものは、あの伊藤忠商事をはじめ、日本中の商社が「OEMに未来はない、はやく次の収益の柱をつくらねば」ということだった。例外はなかった。
商社OEMを奈落の底に落としたのは、中国企業
当時からアパレル産業の分析は的外れなものばかりだった。アパレル産業には、まともに「コンサルティング」という技術を学んだ人は少なく、グレイヘアと呼ばれる経験で語る人ばかりだったからだ。
例えば、「直接貿易」といって、商社をはずす直貿が加速したのは、アパレルが商社外しをしはじめたからだ、ということに誰も疑問をもっていない。しかし、そんなことが可能なら、最も儲かっていた90年代半ばになぜそれをやらなかったのか、ということだ。
直貿が加速し、商社の付加価値が薄れてきたのは、中国の公司など、海外工場が商社機能を持ち始めたからだ。例えば、現在、日本には、デジタル国家世界第二位の中国工場の支店が山のようにあり、彼らが、商社と同じサービスをアパレルに提供している。これをもって、商社の人間は、「あんなものは直貿じゃない」と高をくくって目をそらしているが、アパレル側からすれば「同じ」である。
さらに、もう一つ重要な示唆は、商社もリテール戦略と称し小売市場に出たり、アパレルを外し専門店に直接販売する、あるいは、海外に対して商社機能を持たせるなどの取り組みをしてきたが、ほぼ全てが失敗してきたということだ。
唯一成功したのは、伊藤忠商事や三菱商事など、有能な人材の宝庫である「総合商社」だった。伊藤忠商事は、当時からブランドビジネスに軸足を移し、OEMはスポーツやユニフォームなど、ファッション商材から離れ、ユニクロ的支援(生産が安定し機能価値を訴求する商材)ができるところに軸足をうつし、いわゆる「ブルーオーシャン戦略」を展開。私が「商社2.0」で提案した「商社は投資業務にシフトせよ」を組み込み、「随伴トレード」(M&Aでアパレルに経営者を送り込み、仕入を自社誘導する)を拡大させた。
また三菱商事は、「常駐ビジネス」を拡大し、工場のラインを買い、アパレルにチームを常駐させて生産部の機能保管をしていった。三井物産は、ファイブフォックスとシステム統合をし、専門商社がサンプル対決を繰り返しても、すべて三井物産経由で伝票が通る仕組みをつくった。これらは、OEM以外のことができる人材がいたからできたともいえる。
しかし、こうした戦略も、「日本の中で一定規模のアパレル製品が売れること」が前提だ。日本市場が縮小しアパレル商品が売れない今、これらは機能不全に陥っている。加えて、こうした時代を生きてきた人間が経営幹部になったことも相まって、コンプライアンスもあり商社は金縛りになり、大胆な発想で動けなくなった。こうした中、全く異なる戦略が必要となってきた。すでに商社の業界再編は進んでいるが、
次回は、商社が自ら戦略を立案し復活のための提言したい。
プロフィール
河合 拓(経営コンサルタント)
デジタルSPA、Tokyo city showroom 戦略など斬新な戦略コンセプトを産業界へ提言
筆者へのコンタクト
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