“鬼の形相”だった故中内功ダイエー創業者を思い出す。
1995年1月17日。
中内功ダイエー会長兼社長(当時)が東京都大田区田園調布の自宅で起床したのは午前5時30分――。
テレビニュースで阪神大震災を知り、隣に住んでいた中内潤副社長(当時)を電話で叩き起こした。
午前7時。
浜松町オフィスセンターに到着した中内潤副社長に移動中の自動車電話から、潤氏を本部長に災害対策本部を設置せよと指示した。
政府が対策本部を置く3時間も前の出来事。長い闘いが始まった。
その後、中内功さんとダイエーは、この大震災と正面から対峙して、一民間企業の役割を遥かに超える執念と速度でライフラインを死守した。流通業とは関係ない業種の人たちもいまだにあの時の中内さんを覚えている。
衝撃だった。
中内さんの遺伝子は、いまもなお受け継がれているようで、東日本大震災直後の3月13日早朝から同社東北地方唯一の店舗であるダイエー仙台店(宮城県)は営業を再開し、店頭には約3500人が列をつくった。本部から多くの社員が応援に駆け付け、商品を切らさないように努めた、と称賛されている。
阪神大震災との闘争と復興を経て、中内さんが到達した境地は、大災害との共生だ。
「この日本列島に住むかぎり、台風、地震、大火災、何時襲ってくるか誰もわからない。対策は共生しかない。共生とは馴れ合いではない。緊張した関係をもちつづけることである。ライオンとカモシカ。緊張した関係でアフリカのサバンナに共生している。大災害とわれわれも、この緊張関係が必要である」(中内さん)。
大災害と共生するためには、自然をリスペクトする必要がある。
どんなに緻密で頑丈な街、建物、施設、装置を整えたとしても、大災害はその上を行くものと考えるべきだ。
それが自然へのリスペクトという意味である。
1000年に一度と言われる東日本大震災のような大災害を誰もが想定していなかったわけだが、実際に起こってみれば、16年前の中内さんの言葉をなぜ、もっとちゃんと受け止められなかったのかという反省ばかりが残る。