ユニーの“中興の祖”の1人である故家田美智雄さんという流通業界最強のサラリーマン経営者を全6回で振り返る連載・小売業サラリーマン太閤記。第2回目は、西川屋(後のユニー)で家田さんが、いかに取引先を説き伏せたか、そして取引する上で何を重視したかに言及したい。いまのビジネスでも極めて有効な、「できるビジネスマン」の仕事術として読んでも面白い。
取引のない大手問屋を説き伏せる
西川屋に転じた家田さんは、取引先を拡大し品揃えを拡充することが食品スーパーを成功させるためには必須の課題と理解していた。
多くの食品問屋に足しげく通ったもうひとつの理由は、そこにあった。
ただ、家田さんが秋波を送るものの、このころの西川屋の評判は食品問屋の世界では最悪最低だった。目玉商品を載せたチラシを絨毯爆撃のように撒き散らし、かなり強烈な低価格を打ち出していたからだ。
「なんであんな安い価格を打ち出せるような値段で卸すんだよ!」。
その日に家田さんがアポイントを取っていた大手問屋にも、取引のない西川屋に対する数々の苦情が取引のある中小零細小売店から届いていた。
社を訪ねると、社長自らが玄関で待ちかまえて、仁王のような厳しい表情をして、でんと立っていた。番頭然とした従業員を従え、家田さんを迎える。
社長は西川屋に関する言われなき数々のクレームに憤慨し、「いったい、どんな奴がどの面下げてやって来るのか見てやろう」と身構えていたのだ。
しかし家田さんは、そんなことはお構いなしだった。
応接に通されると間髪を入れずに、新しい商売についての日本での現状や持論を一気にまくしたてた。
「ご存じのように『主婦の店スーパーチェーン』では、生業店とは売れる量の単位がまったく違います。量がさばけるということは、メーカーや問屋にとってはプラスに作用します。効率的であるし、帳合も集約できます。ひいては計画生産の精度だってあがります。一方、小売業は、薄利でも安く売ることができるし、薄利でも儲かる。だから、お客さまの満足度も凄く高い。つまり三方よしの商売なんです。これが日本で定着しないわけがないと考えています。もちろん、西川屋も同じ商売を目指しています」。
家田さんが心底感じていることをありのままにぶった。
はじめは批判的な態度でいた社長は、そのうち身を乗り出して聞き入り、話が終わるころには、怒気もどこかに飛んでいた。
出てきた言葉は、社長が面会前に考えていたものとはまったく違った。
「これからの時代は食品スーパーのような新しい商売をする業者と取引しないといけないと思っていた。今は、潮の変わり目だろう。あんたの話で、それを確信した。やろうじゃないか」と取引開始を快諾してくれたのだ。
チェーンストアは、カネさえ回れば絶対に有望な商売
大手問屋との取引をスタートさせると、衣料品店と食品店の商売はずいぶん異なることが分かった。
たとえば、それまでの西川屋は手形を切ったことがなかった。「ある時払いの催促なし」というユルい商売で、卸売店から10万円を請求されると、手元の現金のうち5万円を支払い、残りは手元に残していた。それで構わなかった。
一方、食品スーパーの商売では問屋から手形を切らされ、時間がくればしっかりと払わされる。
そこで、家田さんは、大手数社に取引問屋を絞って、集中仕入れをすることにした。期初に通年の取引金額を提示して握手する。そのうえで、手形を切って仕入れる。期日がきたら、手形を落とす――。
ところが西川屋の資金繰りは常に厳しく、いつも運転資金がショートしていた。けれども経理部長は、そんな商売をしたことがないから、知らぬ存ぜぬでまったく動いてはくれない。
それでは会社が潰れてしまうので、まだ30歳前の若造である家田さんが問屋に乗り込み、社長に手形のジャンプを直談判する――。
こんなことが繰り返され、何度も綱渡りの難局を乗り切っていった。
ある日、件【くだん】の大手問屋の社長に食事に誘われた。
「あんたのところは、手形のジャンプが多いけれども実際の財務内容を正直に教えてくれ」とトンカツをほおばりながら、しかしいつもにはない真剣な表情で詰められた。
家田さんは本心を吐露した。「もし私を信用してジャンプしたり、貸してくれるのであればやめてほしい。自分には損失を補てんするだけの財産はありません」。
言い終わると、ひとつ付け加えた。
「ただチェーンストアというのは、カネさえ回れば絶対に面白い商売です。だから、もしチェーンストアとして西川屋を認め、将来有望だと感じられるのであれば従来通りお願いしたい」。
その社長は「よし分かった。やってやる」と言い、本当の意味での両社の長い取引がスタートした。
取引で大事な3つのこと
たぶん、そんなことがベースにあったからだろう。
家田さんは、どの立場になっても、取引姿勢についての明快な持論を社内で言い続けた。
それは、取引をするのに1番大事なことは「品質」であるということ。2番目は「価格」だ。だから同じ品質のものなら、価格の安いところから買うことを絶対原則とした。
そして3つめに来るのが「情【なさけ】」である。面倒を見てもらったり、親切にしてもらったり、懇意だったり…品質と価格が同じであるならば、情をかけて構わないと断言するとともに、自らもその姿勢をずっと貫き通した。
そんなことを繰り返し、味方をつくり、周囲を巻き込みながら、西川屋は確実に成長を重ねていった。
昭和38年(1963年)に西川屋チェンに商号変更し、翌年、マルサン(長野県)、銀杏屋(三重県)と合併。昭和46年(1971年)にほていや(神奈川県)との合併により、ユニーを設立した。
GMS(総合スーパー)の大型店をドミナント展開することで、とくに東海エリアにおいては向かうところ敵なしだった。
家田さんも、ユニー取締役、商品本部ドライ食品部長(1971年)や東海ユニー商品部食品文化部長(1972年)などを歴任して、順調にキャリアを積み重ねた。
突如人事部長に任じられる
厄年に当たる数え42歳の昭和50年(1975年)のこと――。家田さんは胆石除去の手術で入院していた。
すると見舞いがてら、10歳年上の西川俊男副社長(当時)が訪ねてきて、唐突に「人事部長をやってほしい」と切り出した。
思いもしていなかったふいの打診に反射的に拒絶した。
「勘弁してください」。即答しながら、頭の中では理由を探していた。
「自分は営業サイドで結果を残してきた人間だ。人事に関する知識はほぼない」。
ちょっと考えれば、明快だった。きっぱりと断ったから、もはや異動の話は消えたはずだった。
ところが、退院後に出社すると、家田さんを人事部長に据える人事発令が張り出されていた。
実は、西川副社長にも家田さんを指名しなければいけない理由があった。
ユニーの経営陣と労働組合の関係が悪化していたのである。
労働組合は、話がこじれると地方労働委員会(都道府県単位で設置されている労働委員会)に駆け込み、裁定を求めた。ほとんどは労働組合側の言い分が通り、経営側は常に劣勢。石油ショック明けのこの年には実に23%のベースアップを飲まされた。
その影響で好調だったユニーは減益を喫することになる。
労働組合と正面から向き合い、渡り合える人物――。西川副社長は、話がうまく、従業員からの信望も厚い家田さんに白羽の矢を立て、大事な時期を乗り切りたいと考えたのだ。
家田さんが人事部に着任してみると、小売業とは雰囲気が異なる数名の社員がいた。彼らは、労働組合対策の“専門家”を自称していた。話をしてみると、“専門家”には共通項があった。交渉をする前から弱腰の一辺倒だったのだ。
「組合はこれを聞きませんよ」とか「いやいや、そんなに甘いもんじゃないです」とか、何かをしようとすると労働組合の動きを先読みし尻込みした。
「出もしないお化けに怯えている」と家田さんの目には映った。
そこで、数か月を待たずに、“専門家”を全員交代させてしまった。
それは、「俺が前面に立ってやる!」という家田さんの不退転の決意表明だった。代わりに交渉に関しては人事部長が全権を掌握することを会社に認めてもらった。
家田さんが人事部長に就く前のユニーの団体交渉は、会社側が20人出席すると、労働組合側も20人出席という形が取られていた。それを会社側は6人に減員した。「悪役は少ない方がいい」という考えからだ。
一方、労働組合は部屋に入れるだけ何人参加しても構わないとした。
枠を取り払い、膝を詰めて話をじっくりしてみると、労働組合は、大中小の様々な問題を取り上げ、どんどん突っ込んできた。
けれども、すぐに「労使問題は、それほど難しいことではない」という感触を得た。「民間企業の行きつくところは条件闘争に勝っても会社が倒産してしまえば終わり」という開き直りからだ。
腹をくくり、先入観を持たず、会社を良くすることを前提に、相互に忌憚なく語り合ううちに、労働組合は理解してくれ、1年を待たずに良好な労使関係を築くことができた。
そして、昭和51年(1976年)、西川俊男氏がユニーの社長に就任。同じ年、名古屋証券取引所に上場するなど、いよいよユニーは黄金時代を迎えることになる。