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「主婦の店」をつくった男

 日本の食品スーパー(SM)1号店は、1953年(昭和28年)11月に開業した紀ノ国屋(東京都/桑原健社長)とするのが通説であるが、1956年に、吉田日出男が福岡県小倉にオープンさせた丸和フードセンターを1号店とする説も依然有力である。

 紀ノ国屋はセルフサービスこそいの一番に導入したが、当初は配達サービスを実施していたり、現金対掛売が6対4であったというのが、「丸和1番説」の根拠である。

 また、八幡製鉄厚生課分配所を1号店とする説も存在するが、これは閉鎖的な組合内の話であり、万人に門戸が開かれていたわけではなかった。

 

 1955年、吉田は、日本ナショナル金銭登録機(現:日本NCR〈諸星俊男社長〉)の企画部長であった長戸毅から米国・デイトンのNCR本社で学んだ知識と見聞を耳にする。

 モダン・マーチャンダイジング・メッソド(MMM:現代小売業経営法)の7つの原則、

 ① セルフサービス

 ② ショーマンシップ

 ③ 低価格政策と高回転

 ④ 取扱商品の増加

 ⑤ 多店化政策

 ⑥ 商業施設の地方分散化

 ⑦ 信用販売(クレジットセール)

 

 を熱く語る長戸に吉田は感銘を受けた。

 

 1956年3月、吉田は、396㎡の丸和フードセンターをオープンさせることで、長戸の思いを具現化した。セルフサービス方式を取り入れたローコストオペレーションや高い販売効率を実現した丸和フードセンターはオープン当初こそ苦戦を強いられたものの、やがて月商200万円を記録した。

 当時、食品の繁盛店としては秋田のト一屋、郡山の紅丸商店(現在のヨークベニマル〈福島県/大高善興社長〉)などがあったが、丸和フードセンターの売上高はこれらを上回る驚異的な数字を計上した。

 吉田が後日著した『スーパーの原点』(評言社)は、当時の様子を「(1956年)12月30日の売上高は308万円、31日は418万円という記録的な数字を示した。(中略)まだ、赤字はすべて解消したわけではないが、日本で最初のスーパーマーケットの経営は軌道に乗ったといってもいいだろう」と綴っている。

 

 この成功に目をつけたのが(社)公開経営指導協会の喜多村実(専務理事)である。吉田は、彼の招きによって、1957年1月、鳥取県米子市で開かれた全国小売業経営者会議で「丸和フードセンターを語る」という演題の体験談を披露した。

 当時、急速に力をつけ、中小小売店の脅威の的に変貌を遂げつつあった生活協同組合のことを「生協は月給鳥という鳥である。われわれは商人という人である。人は鳥に負けるわけにいかない」と揶揄して結んだ彼の体験談は、多くの進歩的な中小小売業者や日本専門店会連盟のメンバーから注目され、大いに興奮せしめた。

 吉田は講演の後、喜多村から招聘され、公開経営指導協会に新設されたスーパーマーケット部会長に就任する。

 

 吉田らの指導によって開発された店舗は1957年5月にオープンした大垣店以降、着々と出店を重ね、「主婦の店スーパーチェーン」と命名された。

「スーパーマーケットが取り扱う商品、食料品、日用品などというものは、すべて家庭の主婦層が毎日必要とするものでありますから、その相手方、主婦の名をつけて、『主婦の店』という名称にしたわけです」(『スーパーの原点』より)。

 大垣店の成功により、その後、続々と「主婦の店」を名乗るSMが開店することになった。

 第2号の大三沢店、第3号の小倉店(丸和フードセンター別館)、4号店の岐阜加納店、第5号店の西一宮店と矢継ぎ早に開業し、結局、57年には「主婦の店」は8店舗がオープン。58年末までには、27店舗を数えるに至った。

 なお、中内功が率いるダイエー(東京都/村井正平社長)は、「主婦の店」運動に直接参加していたわけではない。ただ、設立当初に主婦の店ダイエーを名乗り、その1号店の名称は「主婦の店・ダイエー薬局」としていた。

 

 高邁な理念のもと、「商人の生協運動」を目指した「主婦の店」運動は瞬く間に日本全土を席巻していく。

 だが、58年8月には吉田派(風車系)と大木清太郎派(公開経営系)に分裂。よい時代は長くは続かなかった。

 吉田を中心に再編された主婦の店スーパーマーケット全国チェーンは、その後、ボランタリーチェーンを志向し、中京地区では初期段階から、また一部地域においても共同仕入れにチャンレンジしたことがあった。

 しかしながら、当時は「スーっとできて、パーっと消える」とSMがバカにされていた時代。その言葉通り、会員の中にはあっという間に倒産する企業も少なくなく、共同仕入れは貸し倒れの危険性を常に秘めた。また、SMの商品構成比率は生鮮食品のウエートが高く、地元仕入れが大きかった。

 こうした理由により、同グループが共同仕入れに本格着手することはついになく、最終的にはシジシージャパン(東京都/堀内淳弘社長)に加盟することで、商品調達するようになった。

 結局、日本のSMを先駆けた主婦の店スーパーマーケット全国チェーンは、経営に関する精神的集合体と化し、経営者の情報交換の場になっていった。

 また、吉田の主張する商人道に徹した「主婦の店」各社の間には、1都市1店舗が不文律として存在し、相互のエリア侵犯は許されなかった。

 これではチェーンストア理論の基本となるドミナントの構築はなかなか進まない。

 その結果、例えば、「主婦の店新宮店」からスタートし、ドミナントエリアの構築を急いだオークワ(和歌山県/神吉康成社長)などは忽ちのうちに袂を分かっていった。

 吉田でさえ「ロマンチシズム的精神的要素が多すぎた」と後日振り返っているほどだった。

 

 さらに、チェーン本部の中には吉田個人の研究機関でデベロッパー的な役割を果たしていた日本スーパーマーケット研究所も悪評だった。同研究所が出店に際して請求する出店費用が高額であったためで、多くの経営者は仰天した。

「先生は金儲け主義だ」とあからさまに吉田のやり方を非難した者もいた。

 同研究所は1964年に縮小改組されることになったが「主婦の店」運動が起こった当初に掲げられた高邁で崇高な思想は、徐々に吉田自身の手によって歪められてゆき、やがては出店希望者もいなくなった。

「主婦の店」運動が停滞していった最大の理由はここにある。

 

 それから30余年、1996年4月15日、吉田日出男は84歳で旅立った。

 日本のSM第1号店を作り上げ、「主婦の店」運動を牽引、一世を風靡した人物の晩節は、その華やかな経歴と業界への貢献とは裏腹に、この上なくさみしいものだった。