商業経営者は、善悪と損得の両方の価値観を持ち、善悪を優先しなければいけない、と言われる。
故新保民八さんの残した「正しきによりて滅ぶる店あらば、滅びてもよし、断じて滅びず」という名言は、そのことを的確に表現している。
ただ、この金言には、時代を超越した普遍性があるとは言えないと思う。
まず、「善悪」と「損得」を対立させている点が現代的ではない。
今日の商業経営者は、「善(=正)」であって当たり前だ。偽装や隠蔽、虚偽、ごまかし、まやかしなど…「悪」であることは、社会から即、駆逐されることを意味するからだ。
江戸時代劇の典型的な極悪商人、「《越後屋》、お前も悪よのう」に出てくる《越後屋》のような商人は、現代社会では生きていくことはできない。
悪事は誰かが見ているものだ。
たぶん、新保さんの言葉が発せられた当時は、お客の弱みにつけこんで価格を上げたり、不良品を売りながら返品を受け付けなかったり、腐った商品を平気で売りつけたり、羊頭狗肉を地で行ったり…そんな悪徳商業経営者が跳梁跋扈していたのだろう。
しかし、今の世の中で、卑しい不正に微塵たりとも手を染めたら最後。あっという間に悪評は広まり、その企業なり、店舗なりは、なくなってしまう。
つまり「悪」とは、店の破滅と同義だ。
ということは、存続の必要条件である「善」を損得と対比させても意味がないことになる。
今の世の中は、正しいことを貫いても、お客から支持を得られなければ簡単につぶれる。
その先には、厳しい競争が待っているからであり、それは「善」であることとは何ら関係がない。
だから、正義を貫いた(=やることはやった)のだから、それでつぶれてしまうのは天命だ、後生は分かってくれる、という考えは、言い訳にしかならないと思う。現代の商業経営者は、正義を貫いた上で、生き残らねばならないのである。
近年は、「儲けること=得」を「悪」とみなす風潮もある。けれども、儲けなければ次期成長のための投資ができずに会社はつぶれてしまうから、これはお門違いというものだ。
顧客を創造し続けるには、先立つものが必要。先立つものとは適正な利益だ。適正な利益がなければ、やがて店はつぶれ、従業員は路頭に迷うに違いない。
そんな考えから私は、「正しきによりても店断じて滅ばすべからず。滅びればそれまで」と言いたい。
至言と捉えられていた言葉や考えも、時代の変化にともない機能しなくなるのではないだろうか。