メニュー

ジョイフル本田 本田昌也さん お別れの会 報告

 すでにこのBLOGで記しているように、昨日、11月14日にジョイフル本田(茨城県/矢ケ﨑健一郎社長)の創業者である故本田昌也(しょうや)さん(2013年9月20日死去、享年83歳)の「お別れの会」が開かれた(@つくば国際会議場〈茨城県〉)。

 約1300の座席は埋めつくされ、その後、一般参列者も続々と詰めかけた。祭壇は、木素材をベースに組み立てられ、間接照明でライトアップ、その周囲は和風庭園風の木々やグリーンを配置――本田さんとジョイフル本田らしいものだった。

 ここでは、当日に挨拶した5人のうち小売業トップ3人の「追悼の辞」「弔辞」「喪主挨拶」を掲載する。(談:文責・千田直哉)

 

【追悼の辞 ジョイフル本田 矢ケ﨑健一郎 社長】

 

 ジョイフル本田ならびに関連会社の役員及び従業員一同を代表して追悼の辞を捧げる。

 

 本田会長は、9月19日の株主総会出席の後、役員全員が出席する恒例の昼食会で歓談中に急に倒れた。その場での応急処置の後、救急車で病院に運ばれたが、翌20日の朝、静かに息を引き取った。

 倒れた時は仕事中だったので、背広やシャツを脱がせての処置となった。最期まで仕事一筋だった男の凄まじい光景を役員1人1人が目に焼き付けた。一生忘れないだろう。

 

 本田会長は1930年(昭和5年)に生まれた。

 家業の材木屋の専務取締役としてアメリカやカナダに木材の買い付けのための出張をしている時に、現地の多くの材木屋がホームセンターに仕事替えしているのを目のあたりにした。自身も材木屋から独立してホームセンターの起業を決意。1975年(昭和50年)にジョイフル本田を設立するとともに、翌1976年に土浦市荒川沖に1号店を立ち上げた。

 

「お客様にとって便利が良い仕事は必ず発展する」というのが本田会長の信念だった。

 我々は、そのことを徹底的に教えてもらった。

 

 ジョイフル本田の創業当時、会長はすでに45歳だったが、1983年には、リフォーム業のスマイル本田(茨城県/丸山治夫社長)、1985年にはアート&クラフトのホンダ産業(茨城県/本田理社長)とスポーツクラブのジョイフルアスレティッククラブ(茨城県/糸山直文社長)を設立した。

 

 持ち前のリーダーシップと馬力で事業を拡大し、創業以来39年間で売上高1800億円、従業員数7000人の企業グループに育て上げた。

 本田会長は、度量が大きく、大胆な性格だったが、人間関係では義理を重んじ、細やかな注意を払う人で、仕事でもプライベートでも実に幅広い交友関係を持っていた。

 

 今年の1月に亡くなった昭和の大横綱、故大鵬幸喜さんとは、二所ノ関部屋に入門した時からの付き合い。当時、本田会長は30歳前と若いタニマチだったが、それ以来、大鵬さんが亡くなるまで50年以上にわたって大変親しい付き合いがあった。

 

 本田会長は、地域貢献にも大きな関心を示した。霞ヶ浦の水質浄化のための活動を支援する本田記念財団は、20年以上の歴史がある。

 また、スポーツ振興を通じた地域貢献にも幅広く従事していた。

 

 仕事面での本田会長は、優れた着眼力とビジョンを持ったビジネスマンだった。

「社会の変化を読んで、大胆に変化しなければ会社は長続きできない」と我々に教えてくれた。

 

 効率重視のチェーンストア全盛時代にあえて、「チェーンストアはダメだぞ」と他社にはない巨大な売場と圧倒的な品揃えを持つ超大型店での商売を始めのが良い例だ。

 1998年(平成6年)のニューポートひたちなか店(茨城県)を皮切りに2011年の千代田店(茨城県)まで6店舗の超大型店をつくった。

 

 一方で本田会長は、商売の基本には大変忠実な人だった。

 徹底した現場主義で83歳になってもほとんど毎日どこかの店舗に臨店していた。

 口癖は「小売りは微の集積だ」という言葉。「売場がどんなに大きくても常に細かな点に注意を払え」と我々に叩きこんでくれた。

 

 また、本田会長は自分に厳しく、公私のけじめをはっきりとしていた。

 創業当時からそうだったと聞くが、私も傍で見るにつけ、「本当だ」と心底思った。

 

 本田会長は病気を患ってから、健康のため土浦のジョイフルアスレティッククラブのプールで水中ウォーキングをしていた。とくに昨春の足のケガの後は、主治医の勧めもあって頻繁に通い、昼間の店の訪問後、夕方はプールで鍛えるのが日課になっていた。私もよくプールに一緒に行ったがウォーキングをしながらいろいろなことを話してもらった。

 

 さて、ジョイフル本田の株式上場は、本田会長にとって最後の大きな目標だった。「社員のため将来のために上場するのだ。そのために身体を鍛えるのだ」と繰り返し言っていた――。上場する姿を見ぬままに亡くなったことは、さぞかし無念だったと思う。

 我々は本田会長の意思を引き継ぎ、ジョイフル本田の上場のために今後とも全力で努力していきたい。

 

 本田会長。我々は、会長が突然いなくなってしまったので悲しい気持ちで一杯です。

 

 本田会長から「何かあったか?」と声を掛けられるたびに、「気にかけてもらっているのだな」と安心したものだ。本田会長が亡くなり、我々全員、精神的な拠り所を失ったようで誠に哀惜の念に絶えない。

 

 しかし、今後は本田会長の偉大なる功績を支えに会長の遺したものを大切にしていきたい。また我々1人1人が会長から受けた薫陶をそのままに全力を傾注して社業の発展を図っていきたい。

 それこそが会長から受けた恩に報いる道であると信じ、その決意をジョイフル本田グループ全役職員を代表してここに誓う。

 

 今、在りし日の姿を偲び、その足跡を顧みて、尽きることのない感謝を捧げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げる。どうか安らかにお休みください。

 

【弔辞 アークランドサカモト 坂本勝司会長】

 

 本田昌也会長のお別れの会に当たり、心より哀悼の意を表したい。

 本田会長とのお別れがこれほど早く訪れるとは、まったく思いもしなかった。

 突然の悲報を受けたのは、9月20日だった。

 その前日の19日はアークランドサカモト(新潟県/坂本雅俊社長)のホームセンタームサシ新潟西店(新潟県)のオープン日。早朝9時頃に電話で「これからオープンします」と会長に報告するとふだん通りの声で「そうか。行けなくて悪いな。がんばれよ。行けるようになったらまた行くよ」と話してくれたところだった。

 

 その翌日の信じられない訃報だった。

 

 振り返れば、金物問屋業を営んでいた当社が1976年(昭和51年)、ジョイフル本田がホームセンターを開業した時に1ベンダーとして取引をしてもらったことが付き合いの始まりだった。

 その後、当社もジョイフル本田のような店舗をつくりたいという思いが強くなり、「本田流の経営を教えてもらいたい」とお願いし続けた。

 そして1993年(平成5年)に業務提携をしてもらうことができ、ちょうど今年で20年が経過した。まさに会長との御縁だった。

 

 (この業務提携に至るまでには裏話がある。)

 たまたまある方の葬儀の後に、本田会長から「うちに寄っていくか?」と気さくに声を掛けてもらい、自宅にうかがうことになった。いろいろな話を聞く中で、お酒の勢いもあったのかもしれないが、会長の口から業務提携の話が飛び出したのだ。

 本田会長は後日、しみじみと、「あの時、一言多かったことがこういう関係になってしまったんだなあ」と振り返っていたことを思い出す。

 

 実際、提携が始まってからは、会長の面度見の良さに驚かされた。1日1回は電話をもらった。用事がなくても「おい、何かないか?」という調子だった。

 

 些細なことでは、「私の方からは電話をしづらいだろう」という配慮もあったと思う。

 そのくらいわが社のことを気に掛け、気を使ってもらった。初めの10年間ほどは3カ月に1度は茨城県から新潟県の当社まで来てもらい、店舗を見てもらった。

 そして、「ここは良い。ここは悪い。ここはこうした方がいい」と細かく具体的に指導してもらった。まるで当社の社長のようだった。

 

 本田会長。会長は当社にとって恩人であり、私にとってはかけがえのない事業の師です。

 

 会長との出会いにより、私の人生も大きく変わった。これからも会長を師として、「会長ならばこんな時どう考えるだろうか? どう行動するだろうか?」と心の中で対話していきたい。

 最後に心から尊敬と感謝を捧げ、謹んでご冥福をお祈りします。どうか安らかにお眠りください。

 

【喪主挨拶 本田理(まさる) ホンダ産業社長】

 

 本日は、父本田昌也のお別れの会に参列いただき、ありがとうございました。
 父も皆様のご厚情に心から感謝していることと思います。

 

 生前、父は、「人との出会いが一番大切なんだ。その点、自分は凄く運がよかった」「生きている間に出会った人たちは自分の宝だ。今日、自分があるのはその人たちのおかげだ」「もちろん家族は大事だが、社員も家族同様だ。社員とその家族の生活を守るのも自分の義務だ」と、事あるごとに言っていた。

 

 9月19日、突然のことだった。翌朝、静かに眠るように亡くなった。

 

 生涯現役を貫き、最後は先に逝った母の元へと急ぐように行ってしまった父に、私たち家族は別れの言葉を交わすこともできなかった。

 

 「いつも夢を持ち続け、精一杯生きる。我が人生に悔いなし」。

 この言葉を本田昌也の最後の言葉として受け取ってほしい。

 本日は、ありがとうございました。