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ふた昔ぶりに恩師の楓元夫先生を囲む

 大学卒業23年を経て、ゼミ担当(マスコミニュケーション)の教授だった楓元夫先生(元東京新聞論説主幹)を囲んで食事会を開いた。

 16人いた同期ゼミ生の中で集まったのは5人。みんな経年相応の齢の重ね方をしており、毛髪は薄く、腹の出てしまった健全な中年4人、プラス“みんなのマドンナ”が顔をそろえた。

 会う早々、先生から「(当時と比べて)貫禄がなくなった」と言われてショックを受ける者も…。

 

 楓先生は大正11年の生まれ。岐阜県土岐市の出身で現在88歳。満州建国大学、早稲田大学政治経済学部を卒業後、昭和21年、中日新聞社入社。政治・経済記者を経て、海外特派員、論説委員を歴任。東京新聞(中日東京本社)論説主幹を最後にフリーの政治評論家に転身した。

 フジテレビや文化放送のニュースキャスター、TBSテレビ『奥さま八時半です』にも準レギュラー出演。いわば“コメンテーター”の先駆けだ。著書には『震撼の昭和政治50年』『The 自民党大辞典』『梟は見ていた』『記者の遠吠え』など多数ある。

 

 ふた昔ぶりの楓先生は、「75歳の時に食道がんを患い、手術を受けた」と言うだけに、以前との比較では少し痩せていた。入れ歯の影響で話も聞き取りにくかったが、米寿の割にはお酒も良く飲み、料理も良く食べた。

 

 私の大学では、15年間、ゼミを持っていた。

 そのうち8年間は2つのゼミを教えていたので、推測すれば、15(年)×16(人)+8(年)×16(人)=368人の教え子を社会に輩出したことになる。

 

 そして、こういう会合に出ると、先生というのはつくづく羨ましいと思う。

 約400人の教え子たちは永遠に弟子であり、そのうち数%は、今日のように先生の元に帰ってくるからだ。

 サラリーマンの場合、部下が退職後に自宅を訪ねてくるなどということはほとんどないことだろう。

 

 ただ、その分、先生も時間と労力、カネを使ってきたと思われる。私などは、3年間のゼミ在籍期間中、先生にどれだけ、ご馳走になり、どれだけ教えを乞うたことか。

 「私は山寺の鐘。強く叩いてくれればそれだけ大きな音を出すよ」という言葉に甘え、留年していたころは、1週間に一度は、1000文字の作文を5本ほど自宅に送りつけ、添削してもらい、送り返してもらっていた。

 その意味では、いまの仕事に就くに当たり、どれほど面倒を見ていただいたかは分からない。

 

 約400人の教え子を送り出していることもあり、私たちの顔と名前はなかなか一致していないようだった。しかも、私たちは15年間を通じてかなり出来の悪い代だっただけに、記憶も覚束ないように見受けられたが、それでも楽しいひと時を過ごすことができた。

 

 席上、先生は95歳までは生きることを宣言――。できるものなら、毎年、同じこの季節に、先生を囲みたいものだ。

 

 先生の醍醐味とは、教え子の醍醐味でもあるから。