雑誌の編集という仕事をしていると、当然のことながら、モノ書きや編集者など文字を生業にしている人たちとの交流が多くなる。
彼らと会話を交わすうちに判明したのは、その学生時代、「国語」の成績は必ずしも良かったわけではなかったということだ。
国語の試験問題というのは、大きく、①小説やエッセイなどの長文読解、②漢字の読み書き、③古文、④漢文、⑤作文の5つに分類される。中でも、編集者・ライターが苦手にしていたのは、配点のウエートの高い長文読解だ。
実は、私も長文読解には苦戦を強いられたひとりだ。
とくに嫌だったのは、「この時、主人公はどう思ったか?」と3~4つの選択肢から1つを選ばせるものだ。
2つくらいにまでは簡単に絞られるのだが、そこから先が分からない。
結局、正解ではないほうを選んでしまい後悔した、などということは数知れない。
けれども長文読解の問題に原稿を提供した筆者でさえ、答えを間違えたというケースもあるというのだから、本当は問題自体に問題があると思いたい。
国語における長文読解のねらいとは、与えられた情報を周囲と同じように受け止めることができる能力を見極めることだろう。
たとえば、社会に出て、社長が方針発表しているのに、1人だけ受け止め方が違ってしまってはいけない。その意味からも、相手の言わんとしていることを、正確にとらえる読解力が必要なのだろう。
けれども、同じ情報でも、見方を変えれば、見え方は随分違うということはままある。
2009年12月24日のBLOGでも記したように「事実とは多面体」であるからだ。
http://diamond-rm.net/articles/-/4131
そして、文字を生業にしている人たちの共通項は、自我が強いことである。普通のヒトと同じような視点でモノを見ていない。そうでなければ、読まされる側は何もおもしろくないからだ。
だからそうした人たちは、たとえ他人と同じようにモノを見たとしても理由は他人とは変える。それがメシのタネになるというものだ。
そんな人間が長文読解の試験を受けても、自我が邪魔をして正答を導き出すのは難しい。
でも長文読解と考えることやモノを書くことは、同じ国語の範疇にあるとは言え別の技術。だから長文読解の苦手な人たちが編集畑では活躍できているのである。