偏屈者でなければ“モノカキ”など、務まらないようなところがある。普通のヒトと同じような視点でモノを見ていては読まされる側は何もおもしろくない。だから“モノカキ”は、たとえ他人と同じようにモノを見たとしても理由は他人とは変える。それがメシのタネになる。
幼き芥川龍之介は、教師から「綺麗なものを挙げなさい」と問われ、「くも」と答えた。周囲の児童は「バラの花」「孔雀」「貝殻」などを挙げ、教師は「くも」は綺麗ではないと一笑に付した。
「風に吹かれて形の変わるあの雲は綺麗だ」。
芥川龍之介の溢れる感性と才能は幼少の頃からのものだったと改めて実感させられる。
しかし、ヒトとは異なる視点でモノを見ていることが当たり前になると偏屈だと言われてしまう。しかも“モノカキ”には自信家が多い、となれば周囲と折り合いが合わなくなるのは自然の流れだ。
『蒲団』などの名作を残した永井荷風は奇人変人。文壇からさえ孤立していた。
朝日新聞は「買物籠を抱え、ちびた下駄をはいて、八百屋の店先に立つ格好は、文化勲章の文豪という姿ではなかった」と、そんな永井荷風の姿を描写している。
だが、偏屈であり、周囲と折り合いがつかないことは、果たして悪いことなのだろうか?
そして、ジャーナリストも“モノカキ”とするなら、最近、抜群の変人ぶりを見せているのが、上杉隆さんだ。