稲盛和夫さんの『生き方』(三笠書房)に出てくる話――。
ある時期、稲盛さんの会社、京セラは、半導体パッケージ(電子機器に使われる半導体チップを外部環境から保護するとともに電気的な接続の役目を果たす容れ物)をファインセラミックでつくるために、研究開発を進めていた。
しばらくたって、研究開発部門のリーダーが喜び勇んで稲盛さんにサンプルを見せに来た。
「ようやく、できあがりました!」。
ところが、稲盛さんは、「どことなく薄汚れているから不合格」と冷たくあしらう。
稲盛さんは、そのリーダーに向かって「性能はともかく、これではダメだ。色がくすんでいる」と言い放った。
納得のいかないリーダーは「色がくすんでいることと製品の性能は関係ない」と応戦――。
しかし稲盛さんは、「外見は一番外側にある中身」だとして、反論を却下。見た目が美しいものは必ず、その特性も優れている、と結論している。
このエピソードを読んで、人相について考えてみた。
もし、外見が「一番外側にある中身」だとするならば、人相の悪い人は、性格・性情・運命の悪い人間に違いない。
そして、極めて主観的な話なのだが、このことは当たっているような気がする。
サンプル数はそれほど多くないし、あくまでも、私から見てという前提の中で言えば、人相が悪い人に、いい人間がいたためしがない。
そういえば、任期途中で聖職をほっぽり投げ、新党結成に奔走しているあの人も人相が悪いよなあ。
それはさておき、素晴らしい人相と思われる人にも極悪人がいたりするから、人相を介した人の判断は、まあ、あてにならない。