世界最大手のソフトウエア企業であるアドビシステムズは、ソフトウエアの開発や販売だけではなく、マーケティングのソリューション提供も行っている。
世界の小売業界で加速するEC(ネット通販)の動きをどう見ているのか。
同社で小売、旅行、CPG(消費財)業界のマーケティングを担当しているマイケル・クライン氏に聞いた。
聞き手=千田直哉(本誌) 構成=太田美和子(フードマーケット・クリエイティブ)
アマゾンのPB参入に注目
モバイル端末経由のEC利用が増加
──まず、近年の世界におけるEC市場をどのようにとらえていますか。
クライン 世界的に、ECの市場は小売市場全体のうちの小さな部分を占めているに過ぎません。実店舗が市場の90%を占有しています。とくに、スーパーマーケット(SM)、ホームセンター(HC)、ドラッグストア(DgS)では、実店舗での売上が非常に大きな割合を占めています。
それにもかかわらず、小売企業がECに戦々恐々としているのは、その成長率にあります。たとえば、アジア太平洋地域では2014年から19年の実店舗の年平均成長率が7.7%であるのに対し、ECの年平均成長率は29.3%(出典:デジタルマーケティング調査会社のeMarketer)になると推計されています。地域によって成長率に差はありますが、世界中でEC市場は拡大しています。
とくに、アマゾン(Amazon.com)の存在は脅威です。当社が15年末に調査したところ、米国内のEC売上の伸び幅のうち、51%はアマゾンによるものでした。そればかりか、米国小売市場全体の成長幅の24%をアマゾンが占めています。
──そのアマゾンに対しては、日本の小売企業も大きな関心を寄せています。
クライン アマゾンについて、その成長スピードの速さに加えて私がもう一つ注目している点は、プライベートブランド(PB)商品を手掛けるようになったことです。ここ数年のうちに、屋外用家具、家庭用品、家電などのカテゴリーに参入しています。
一方、米国の家電専門チェーンを見てみると、サーキット・シティ(Circuit City)は倒産(注:17年に復活し店舗を出店予定)し、ベストバイ(Best Buy)は業績不振に長年苦しんできました。これは、アマゾンが国内の家電市場において大きなシェアを獲得するようになったからです。アマゾンの存在によって、既存の大手小売企業が業績不振に陥ることを指す「アマゾン・ファクター(Amazon Factor)」という言葉まで生まれるほど、アマゾンは小売企業に大きな影響を及ぼしています。
さらにアマゾンは最近、ファッション、そして、消費財のPB商品の販売を開始しました。こうした動きは、SMやディスカウントストアに大きな影響を与えることになるでしょう。
──スマートフォンの普及も、EC市場の拡大を後押ししています。
クライン 急成長を続けるEC市場で今、興味深い変化が起こっています。それはモバイル端末を使ってオンラインショッピングをする人の割合が増えていることです。
当社は分析ソリューション「アドビ アナリティクス(Adobe Analytics)」を活用して、毎年11月の第1週に、その年のホリデーシーズンのEC動向を予測したレポート「アドビデジタルインサイツ・ホリデー・ショッピング・プレディクションズ(Holiday Shopping Predictions)」を発表しています(図)。
出典:Adobe Analytics(2015年)
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同レポートでわかったのは、モバイル端末経由の売上の伸びがとくに顕著なのは日本だということです。日本のホリデーシーズンの売上に占めるオンラインの売上比率は39%で、そのうちモバイル端末経由の売上は33%、パソコンやタブレットによる売上は6%でした。数年前とは逆転しています。
アジア太平洋地域全体で見ても、スマートフォンのコンバージョン率(ECサイトの訪問者数に占める購入者数の割合)は平均1.4%で、数年前のコンバージョン率は1%未満でしたから、増加傾向にあります。さらに上位企業20社に絞るとコンバージョン率は同2.6%とさらに高くなります。
また、同じくアドビ アナリティクスの調査結果によると、小売企業のサイトに検索アプリを経由してアクセスする傾向が高まっています。小売企業のサイトに直接アクセスする比率は減少する一方で、検索アプリ経由の訪問は13年の24.1%から、15年は39.9%、16年は42.9%と上昇しています。ですから、検索アプリ上でできるだけ上位に掲載されるように、今まで以上にモバイル検索ツールへの対処を重視することをおすすめします。
「対話型コマース」が流れを変える
──小売企業では、店舗でのデジタル技術の活用も進んでいます。
クライン たしかに、非接触型精算、デジタルディスプレイ、リアルタイムの価格比較、衣料売場の拡張現実ミラー、クリック&コレクトなど、インストア・テクノロジーに関するさまざまな実験が行われています。
しかし、率直に言うと、どれも「デジタルストア」を確立するための“暗号”を解読したとは言えない状況です。つまり、収益を上げるようなビジネスではなく、まだエンターテインメントの域にあると思うのです。
顧客が特定の小売企業のオンラインストアを選択する第1の理由は、オンラインで購入できることはもちろん、店舗での受け取り・返品ができることにあると複数の調査からわかっています。
ところが、当社のビジネスパートナーであるL2の調査によると、アジア太平洋地域ではECを実施する小売企業のうち、店舗での受け取りができる企業は33%、店舗に返品できる企業は42%です。顧客が便利と感じるデジタル機能を使ったサービスは何なのかを顧客の立場に立って考えると、デジタル技術の可能性はさらに広がるのではないでしょうか。
当社は16年6月に、インストア・テクノロジーの予算についてのアンケートを実施しました。北米の小売業100社を対象にした調査ですが、全体の43%が前年よりも予算を増やし、28%が前年とほぼ同額と回答しました。つまり、7割以上の小売企業がインストア・テクノロジーに対して前年と同等、もしくはそれ以上の投資をする計画であるということです。ただし、重要なポイントは、インストア・テクノロジーを使って、現在起きていることの実態や背景をいかに分析できるか、ということにあります。
──最近、小売業界でも、複合現実(MR)や仮想現実(VR)、拡張現実(AR)の導入実験が始まっていますが、これらの可能性をどのように見ていますか。
クライン VRを活用することで、たとえば店舗から遠く離れた場所に住む顧客が、あたかも空間移動したかのように実店舗の売場を見て回ることができます。その点でVRは確かにおもしろいのですが、おそらく今後も大半の利用は家庭内に限られ、小売業全体に変革を起こすような存在にはならないでしょう。
一方、家庭内だけでなく、実店舗内での適用性があるのがARです。たとえば家具の購入を検討する場合、アプリを使って実店舗にある家具を自宅のリビングループのイメージに当てはめてみることができます。逆に、自宅に居ながらにして、商品カタログにある商品をリビングルームに置いてみるということもできます。
そのほか、革新的という意味では、「対話型コマース」の技術にも注目すべきでしょう。「対話型コマース」は、話しかけるだけでニュースや天気を教えてくれたり、タイマーや目覚まし時計の役目を果たしてくれたりするデバイスです。
アマゾンの「アマゾン・エコー(Amazon Echo)」はその代表的な存在です。キーボード入力の手間がいらず、話しかけるだけで商品を注文することができます。注文した商品は、米国主要都市であれば数時間以内に配達されます。アマゾンだけではなく、グーグル(Google)も同様のデバイス「グーグル・ホーム(Google Home)」を開発中です。
こうした「対話型コマース」は、今後1~2年でEC市場の主人公に躍り出る、とまではいかないでしょうが、近い将来、小売業の流れを変えるゲームチェンジャーになるでしょう。
また、ラインや、フェイスブックのメッセンジャーなどといったメッセージ・アプリを「対話型コマース」として利用することも可能です。ただ、メッセージ・アプリの中でもフェイスブックのメッセンジャーの活用方法に関しては、小売業は経験値がまだ少ないのが現状です。これについては旅行業界がとくに先行しており、そこから学ぶ点が多いと私は思っています。
小売業がデジタル化で直面する5つの課題
──小売業においてもデジタル化が進むなか、小売各社はどのような点に着目し、どう取り組むべきだと考えますか。
クライン デジタル化において、小売企業が直面している課題は大きく5つあると考えています。それら課題を解決していく必要があります。
まずは「スピード」です。顧客体験をリアルタイムに提供する機能を持つことが必要です。次に、「複雑さ」です。小売企業は多彩なチャネルを通じて十分なデータを集めています。しかし重要なことは、その豊富なデータからどのような洞察を得るかです。
3つめは「ロイヤルティ」です。顧客に購買の主導権が移り、関心の対象が多様化している今日、企業は顧客獲得のために多額の投資を行っています。いったん獲得した顧客はつなぎ留めなければなりません。つまり、顧客ロイヤルティをどう高めるかということも課題です。
4つめに「RO(I 投下資本利益率)」です。マーケティング予算を使っただけの効果を得られているか。的確な予算配分がされているか。レスポンス率(プロモーションの反応率)は低下していないか。これらを確認し見極めることが重要です。
そして最後に、5つの中で最も重要なのが、「パーソナライゼーション」です。各顧客の特性に合わせ、リアルタイムに相互のやり取りを交わすことは、われわれが向かうべき方向であり目標です。その達成に必要なのがデータとコンテンツです。
──最も重要であるパーソナライゼーションを実現するためには、どのような取り組みが必要なのでしょうか。
クライン まず、データからお話しすると、デジタルの分野で成功している小売企業の共通点は、デジタル機能とデジタルマーケティングの企画・研究を行う「センターオブエクセレンス(戦略立案・実行を推進する中核的専門組織)」を設けていること、そしてデータの基盤を確立していることです。
その好例が、当社の顧客でもある米国HC大手のホーム・デポ(Home Depot)です。彼らは細かいデータをもとに、たとえば家庭用の商品を買いに来る顧客と、業務用の商品を買いに来る顧客の購買動向の違いを理解することができます。
一方、コンテンツについては、データ分析を行ううえで、コンテンツの利用者が複数のセグメントに細かく分類されるようになってきました。当社はそのためのソリューション「アドビ オーディエンス マネジャー(Adobe Audience Manager)」を提供しており、ホーム・デポでも利用されています。17年半ばには中小企業向けのソリューションの発売も予定しています。
このソリューションは、顧客の購買記録やPOSなどのデータを保管するデータウエアハウスではありません。企業自身が所有するデータ、取引先と共有しているデータ、調査会社など第三者からのデータをプラットフォーム上に集める仕組みです。ソフトウエア業界ではDMP(データ・マネジメント・プラットフォーム)と呼ばれているソリューションです。
プラットフォームにデータを統合することで、顧客像をよりはっきりと見ることができるようになります。そして、そこから得た洞察をもとに、よりよい買物体験を提供することができるようになります。これらソリューションでセグメントしたら、今度はセグメントごとのコンテンツを適合させるわけです。
──最後に、デジタル化を推進する日本の小売企業の中で、注目している企業などはありますか。
クライン 日本はECビジネスにおいて非常に重要な市場です。当社は多くの日本の小売企業と取引をしていますから、その市場の動きは常に注視しています。
たとえば、百貨店業態について関心を持って見ています。多くの百貨店が小型の専門店やファーストリテイリングのような強力なチェーンによって、厳しい状況に置かれていることは承知しています。百貨店が今後どのように課題を克服し進化するかに注目していますし、いくつかの企業とはともに取り組みを進めています。
一方、消費財のECと結び付いたゲーミフィケーション(人を熱中させるゲームの要素や考え方を顧客接点に応用すること)も非常に興味深いと思います。今回来日して感銘を受けたのが、ロハコとオイシックスです。独自のアプリで提供しているサービス内容や、日本の市場で生みだしている効果に興味を持ちました。
このような企業に限らず、デジタル・テクノロジー化をめざす企業はいずれも、人、プロセス、テクノロジーに投資する必要があります。どれかに偏るのではなく、3本足の椅子のように、3つに力を配分投資することが重要です。これには、経営幹部の意識改革が何よりも欠かせません。